丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十八

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十八
 
  「なかなかやりおるわい」と、三明は劉焉の手並みに苦笑した。
 劉焉は益州経営に手を染めたばかりだ。土地の豪族を相手にするには兵員がたりない。喉から手が出るほど兵士が欲しい。そこで道教教団に目をつけたのだ。信徒は教祖のいうがままに動く。その信徒は争乱を経て戦慣れしている、武術の心得がある。張魯も張脩も劉焉の劉焉の下心を知りながら司馬の官に食らいついたのだ。
「漢中はこのうえもない美姫か……」
 万感をこめて三明はつぶやいた。
「さよう、さよう」
 老人が相づちをうつ。
「行ったことがあるのかね」
「年に二、三度は行く」
「道中は険しいらしいね」
「へぇ、そりゃもう。漢中から長安までの道も難渋でのう、太白山を越えるときは雲のなかを歩むようじゃよ。足が棒になって泣きとうなるよ」
「おお、それが蜀は難攻不落といわれるゆえんか」
 三明は腕組みをした。
 この目で漢中を見てみたい。成都から漢中へと続く金牛道とやらを通ってみたい。
 
 「はるばる来たからには漢中にも行きたい」
「よしなされ。戦がはじまった」
「えっ、戦?」
「戦じゃ。おまえさん、腕に覚えがあるらしいが、ここは他国じゃ、地の利も雲気も読めないでどこに隠れるのじゃ」
「……」
「それともおまえさん、親兄弟が漢中にいるのか?」
  心配そうに老人は三明の顔をのぞきこむ。
「いや、いや」
  あわてて三明はかぶりを振った。人の良さそうな老人にこれ以上心配をかけたくなかった。
 「ならばよしなされ、行っちゃだめだ」
 老人はきっぱりと断言した。
 
  成都へ発つ日がきた。老人はその前夜に、北斗星に旅の安全を祈ってくれた。
 城外の船着き場で、別れ際に老人が三明にささやいた。
 「三五、七九は天師道の奴らに近寄るな」
「えっ、なんと言われたのか?」
「達者でな。また、寄ってくれ。首を長うして待っとるよ」
 くるりと背をむけ、老人はむささびのようにひらりと人混みに姿を
くらました。
 「三五、七九、さんご、ななく……はて、何のことだ」
 しきりに三明は首をひねる。隣の席で黄龍の頭を撫でていた胡娘がしのび笑う。
「あら、知らなかったの? 三五、七九はそれぞれをたすと二十四になる。だから立夏小満芒種夏至などの二十四節季を三五、七九ともいうの、己の物知りを披露してね」
「おお。なるほど」
 三明は頷く。
 「三五、七九は天師道の奴らに近寄るな」という警告は、二十四節気は天師道の信徒に近づくなということだ。なぜだろう? 用心深い三明は、老人の警告を胸にしまい込んだ。
 老人が手配してくれた船は、幾重にも折りたたんだような川を遡っていった。川は諸処に水を集めて名を変えて行く。ちょうど巴郡と成都の中間にあたる、数十年後に広漢郡の徳陽県(四川省遂寧市)が置かれたこの船着き場あたりでは水名は、涪水(ふうすい。現在の涪江)と名を変えていた。
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     四川省遂寧市舟山区の涪江 (グーグルマップより)
 
 驚いたことに船着き場では、金細工商の朱が待ちかまえていた。あらかじめ手紙で知らせてあったとはいえ、予期せぬことである。雒陽で見かけた朱は、三明ごとき小者などには目もくれなかった。
「これはこれは遠い所、よう来なすった。ほんに、よう来なすった。息災で何よりですわい」
 朱は目頭を押さえている。変われば変わるものだ、為政の大きなうねりに翻弄されて、この男はよほど心細い思いをしているらしい。

         続く