『三国志』と米倉道

               『三国志』と米倉道

 もしも、映画や小説で『三国志』に登場する人物が、たとえば張飛が「よし、米倉道を抜けて孔明殿と策を練るぞ」とか言っていたら、噴飯物である。なぜなら倉道という呼称は『三国志』の時代には存在しなかったからだ。

 現在の陝西省漢中の南鄭県から、巴山山系の米倉山沿いに四川省の巴中市平昌県にいたる道を米倉道という。この街道が米倉山にちなんで「米倉道」と名付けられたのは清の時代である。
 
 いわゆる米倉道は秦朝末年にはじめて開かれ、漢代に整備された。三国期には重要な軍事駅道になり、歴代兵家抗争地点となった。
 
 この街道は大行路あるいは巴嶺路と称されたが宋朝以降は大竹路と呼ばれ、清朝になると米倉道と呼ばれた。

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 ↑上のキャプチャは四川省が古道を世界遺産に申請しようとして米倉道を調査したしたときの新聞記事である。
 記事によれば米倉道には大別すると三つの道と多くの支道があるという。

漢中牟家壩(ぼうかは。壩は垻におなじ)ー回軍壩ー天池梁西河口碑壩
   通口平昌

漢中黄官廟壩蒿壩(こうは)ー龍王(別名:九角山)ー響灘子上両南江   巴中平昌

漢中黄官廟壩蒿壩(こうは)ー龍王(別名:九角山)ー槐樹(かいじゅ)ー蒙     子旺蒼広元

漢中喜神壩鉄炉壩桃園響灘子上両南江巴中平昌

漢中冷水坪小壩官倉坪(巴峪関 はよくかん)ー大壩草鞋坪(そうあいへい)   ー関壩上両南江巴中平昌  

 なお、この漢中は漢中の治所がおかれた南鄭のことで今の漢中市南鄭県のことである。

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上の写真は南鄭県の航空写真
下の写真は南鄭県牟家壩鎮
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 上下二枚の写真は四川省南江県両河口(米倉道)にある碑
 「蕭何、月下に韓信を追う」の故事はまさにこの地だという。両河口に韓渓河があるがそれが故事の地だという。
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写真では捜せなかったが、このあたりに米倉道の桟道が残っているという。また、桟道の孔の跡が残っているが、形式や規模が秦漢時代のものと符号するという。

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写真は四川省南江県 桃園の光霧山の桃園古桟道

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  南江県 鉄炉壩遠望 
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南江県 九角山風景区 
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四川省巴中市旺蒼県 旺蒼峡谷      
 
米倉道は非常に険阻で狭隘な山間を辿る道であり、現代の大量輸送の時代に取り残され、道の終点にあたる巴中市の発展は遅れている。勿論、道路網は発達しているが、まさに万丈の山、羊腸の道が発展を阻んでいる。

写真はGoogleマップより拝借しました。