丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十九

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 九十九
 
  「こりゃ珍しい犬だ」
 挨拶もそこそこに朱は目を細めて黄龍をみた。
 賢い犬だ。黄龍は朱が敵でないことを察すると、吠えもせずに朱に頭を撫でられている。
「まるで龍のように細長い顔をしとるぞ。名はなんという?」
黄龍です」
  三明が答えた。
黄龍か。ふーむ、こりゃよいぞ。黄色い毛色に細い胴、長い尻尾ときたらまさに黄龍だよ。賢そうな目をとしる。おうおう、性格も良さそうだ。お嬢様はきっと喜びますぞ」
 まるで黄龍をもらったような口ぶりである。思わず三明と三娘は顔を見合わせた。
「おや、お嬢様への土産じゃなかったのかい?」
「ええまあ……」
  三明は言葉を濁した。
「これは地狼の血を引く特別な犬でございまして、魔除けせよと親方から預かった犬でございます」
 三娘があわてて付け加えた。
 黄龍は犬というより頼もしい仲間である。毒蛇や虎狼の気配をいち早く察してうなり声で知らせてくれたし、鼻を顰めて毒草を嗅いで唸り声をたてた。
 正道を通っても怪しげな宿に用心しなければならない。ましてや間道をぬけるとなれば、それに加えてどのような猛獣が待ちかまえているやもしれぬ。聞くところによれば蜀の山中には熊をはじめ熊猫という鋭い爪を持つ猛獣がいるという。それに、なによりも三娘は黄龍とずっと一緒にいたかった。
 
 「やっ、そうだった。私としたことが旅の苦労も考えずに申し訳ない」
 朱は天を仰いで磊落に笑うと、ぺしっと掌でおのれの額を叩いた。
 面と向かって話すのははじめてだったが、黄龍を介して犬好きの朱との距離が少し縮まった。
 
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 上三枚の写真は陝西省漢中市漢台区秦嶺巴山の馬帮(ばほう)
※馬帮(ばほう)とは「貨物を運ぶ荷馬の一隊」のことである。

 雇った馬に揺られて街道をたどった。狭隘といわれた蜀の地にしてはなだらかな道が続く。馬に草を食わせるために小休止した。
高原の風は夏とはいえ凉を含んでいる。岩陰で三明は朱と並んで腰を下ろした。
この街道は平坦で、噂に聞く蜀道とはおもえないでしよう。天候に恵まれれば健脚自慢なら成都まで五日もいらぬ。足弱の女子供でも十日もあれば充分だ」
  朱がにっと笑う。男臭くて妙に人懐こい顔だ。大賢良師ゆかりの娘をつれて蜀に逃げ、立派に生育させた功労者だ、決して軽薄な男ではなかろう。
「なるほど」
「だが三明殿よ、金牛道はこういうわけにはいかんぞ。漢中からは桟道だ、延々と桟道が続いておる。漢の蕭何が漢の高祖を見限った韓信を追い、韓信に追いついた所なんぞは巴嶺にそった狭隘な道で、山また山ですな熊猫が出ますぞ。野獣や毒蛇の餌食になる旅人が跡を絶ちませんわい」
 朱はにっと笑った。
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 写真は陝西省漢中市勉県の鶏頭関古道
 
「うむ。ところで三五七九(さんごしちきゅう)に天師道では何が行われるのでしょうか?」
「……」
  朱は眉を曇らせ足元に目を落とした。
「巴陵で三五七九には張魯に近づくなと忠告されましたが」
「忠告したのは張脩の五斗米道のものだろ?」
「ええ。かの者の義舎に身をよせました」
張魯の穢術(えじゅつ)だ」
「穢術?」
「男女の交合じゃわい」
「えっ」
 三明は顔を赤らめた。
長生の術だ。交合して精を漏らさずという。二十四節季には大々的に行われるらしい。五斗米道が信ずる老子のもう一つの解釈だ」
「それじゃ儒学の徒は非難いたしましょう」
「だから穢術と言われておる」
「なるほど」
「男女の規律が緩いので庶民にはもてはやされる。信徒は日増しに増えて行く。一緒に蜀に逃れた太平道の仲間までが張魯の天師道に宗旨替えだ」
 朱は苦々しそうに眉を顰めた。
 
 
続く
 
 
 
写真はすべてグーグルマップから転用いたしました。