続『三国志』と米倉道

      続『三国志』と米倉道
 
 さきにアップした『三国志』と米倉道の記事では米倉道と三国志とどういう関係があるのか分かりにくかったので、補足いたします。
 
 蜀漢諸葛亮は漢中に陣取り曹操が派遣した軍隊と戦っていたが、そのときに閬中(ろうちゅう)にいた蜀漢の将、張飛はたえず米倉道を使って亮と連絡をとりあっていたという。
イメージ 1
 写真は南江県桃園の光霧山の桟道
イメージ 2
 写真は四川南江県 鉄炉壩
 
 ところで、この米倉道は清朝になってからつけられた名称であるので、三国期にはこの名称は存在しない。
 
 四川の巴中の境内には少なくとも米倉道九十個の古寨が残っているそうで、主な古道が残存しているところは、
 南江県の両河口の桟道および橋墩(きょうとん。橋台のこと)
 桃園古道
 土字壩の桟道孔
 通江県の渡水渓古道石刻
 紅花渓古橋
 平昌県の長安古道
 漢中道などとある。
 
 平昌県の小寧城遺跡と通江の安輯寨は比較的保存状態がよいとのことである。
 
 
 写真はすべてグーグルマップから転載いたしました。
 米倉道らしい写真はおさえてりますが確信がもてないので載せませんでした。
また現地の旅行社の写真に米倉道の石段が掲載されていましたが、著作権がありますので、引用はしませんでした。

 なお、この記事のソースは四川省が古道を世界遺産に申請しようとして学術的に現地を調査した結果を四川省の新聞に発表したものから引用いたしました。したがって張飛が米倉道(巴嶺路)を利用していた話の裏付けは『三国志』からとれません。魏軍が米倉道に入り込み、大敗を決したとの記述も『三国志』では狭隘な道と記されるのみです。これもソースは四川省の新聞です。現地に行けばなにか手かがりになる「地誌」あるいは「郷土誌」が手に入るかもしれません。