五斗米道、五斗の謝礼と孔明の食欲

        五斗米道、五斗の謝礼と孔明の食欲

 張魯五斗米道で、病気治癒の謝礼に渡す米五斗の値は一体いくらぐらいだろうか? 一体それが安いのか高いのか、いつも気になっていた。


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四川省成都市大邑県 鶴鳴山上の道源聖城

 それをすっきりと解決してくれる資料にであった。

 世界をみつめて『三国志』余滴 1―諸葛孔明の食欲」福原哲郎(あきろう)

 である。

   www.kufs.ac.jp/toshokan/bibl/bibl168/pdf/16805.pdf

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 諸葛孔明の食が細いといわれても、も当時の度量衡は換算できても、当時の健康な男子の一日の食事の量がわからないので、もうひとつピンとこない。端的に言えば「だからどうなのよ」って感じだった。
 
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陝西省宝鶏市岐山県五丈原
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五丈原上より見下ろす
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落星石 五丈原
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四川剣閣の諸葛孔明像(ちなみに剣門山に関所を置いたのは孔明である。)それ以前には関城の記載がない)

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五丈原諸葛亮廟(廟は亡骸ではなく、いわゆる魂を祀ったもの)


 福原氏は、
六朝史の大家、周一良氏に、「南北朝時口量数」(魏晋南北朝史札記』)という一文があり、魏晋南北朝時代を通じての兵士への食糧支給量を豊富な史料にもとづき論証している。
 脱穀済みの穀物(米とは限らない。むしろ北中国では黍などの雑穀の可能性が高い)を月二斛(こく)、すなわち一日七升を支給した。それが体力維持の最低ラインだった。ということは、孔明の三、四升というのはその半分ほどであり、激務をこなしているにもかかわらず、食の細り具合が尋常でなかったことになる。(三国志演義での描写) 
 これは現在の三、四合に相当し、副食物がまったくない場合のことだという。
 
 このことから福原氏は、
五斗米道の病気治療代の「五斗の米」とは一日七升換算で計算すると、およそ一週間分の食費に相当すると記す。ただし、副食物がほとんどない時のこと、とされる。

 なるほど明快である。福原氏のこの一文を拝読して積年の疑問が氷解した。

  写真はすべてグーグルマップから転載いたしました。