麦畑の下に眠っていた董卓の郿塢城

       麦畑の下に眠っていた董卓の郿塢(びう)城
  
 『後漢書』の董卓によれば、
 初平元年(西暦190)二月、長安遷都を強行した董卓は、初平三年(西暦192)に郿(び)に塢(とりで)を築いたとある。
 び県は長安の西方二百五十里とも二百六十里ともいわれる。董卓の築いた郿塢(びう)は、墻(かき)の高さと厚さはいずれも七丈(七メートル)、長安城に匹敵するもので、号して「万歳塢」といったが世人はこれを「?塢」と称した。
 塢の中には手広く集めた珍宝をおさめ、三十年分の食糧を蓄えた。「事成らば天下に雄居せん。成らずんばここを守って余生を終えるに十分だ」と、董卓は豪語していたが、初平三年の四月、長安呂布殺されたのだから万歳の名もむなしく響く。郿塢は董卓が敗れるに及んで破壊された。しかし、発掘調査によれば北魏時代の修復がみられるので、北魏の時代にもこの?塢城は廃棄されずに使われていたという。
その所在地は陝西省宝鷄市眉県常興鎮柳巷村である。
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 グーグルマップより
 
 発見の経緯は高速道路拡張である。
 西暦2008年、陝西省宝鶏市眉県において西宝高速道路(西安から宝鷄市まで)を拡張するために眉県に常興服務区を増設することになった。
 そこで陝西省考古研究院と眉県文化館が順次、収用した土地を尭上村から柳巷村までの地下を探りながら発掘していった。その結果総面積三万平方メートル以上に及ぶ陶器を作成、焼成する大型の総合施設が見つかった。このなかの出土物は膨大な数にのぼり、さまざまな種類の板瓦や筒瓦、回紋(富貴が永遠に続くと民間で信じられている吉祥紋様)がある舗装用の塼(せん。焼成した煉瓦のこと。焼いていないものは日干し煉瓦)や空心(中空穴あき)塼などの建築材料が出土した。
 また一千点以上にのぼる加工した痕跡がのこる動物の骨やスクラップ、骨で作った簪、鹿の角、青銅器の鋳型や銅を鋳るときに使う陶製の型のかけらなどが出土したがこれらはみな前漢(西漢)後漢(東漢)の典型的な特徴を備えていた。これらから察すると当時、破格の巨大な建造物の建築材利用の製造工場だったと推察される
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    上の写真は董卓の郿塢城(百度百科より) 
  この写真はさまざまな記事に使いまわされているから、発掘サイドから発表されたものだと思います。

 城壁には敵台や角楼があり、凸型の三方の出っ張りは馬面といって、城壁 をよじ登ってくる敵を突き落とすためのものだそうです。
 
 発掘に参加した陝西省考古院の秦漢研究部部長の田亜岐氏はこのあたりに古城が存在したと考えた。
2010年に考古作業員は発掘する地点の周辺から範囲を広げて考古調査を進めると同時に重点地域を探査していくと北部と西南部にとぎれとぎれだが土を突き固めた細長い遺跡を発見した。はじめてそれが城墻の遺跡だと判断した。
それは『水経注』の「渭水また東して郿県故城の南を過ぎる」の記載や、唐代の『元和郡県図志』に「郿県故城は今の県の東北十五里にあり」という記載に合致するので、これを秦、漢代の郿県県城遺趾と確定したわけである
しかし、秦漢の郿県県城の発見はまだ緒に就いたばかりでした。2010年7月1日、柳巷村の七十歳を過ぎた老人である趙根発さんが、眉県文化館の副研究員の劉懐君氏に一つの大切な手がかりを与えました。趙さんはとんでもないことを言ったのだ。村の麦畑の高圧線の塔の下に何かありますよ。四十年前に大隊の幹部になって村内の土地を測って分配したがその分配した土地の黄土がこの上もなく堅く、深く掘りおこせなかった。それでずっと村人たちはこの地面の下に古城があると言い合ったものです。だから探査すればいつも耕していた麦畑の下に、まさしく四角い(原文は四四方方で、少し意味が通じない。) 古城があるはずだ」と
長期にわたって眉県の歴史研究に携わってきた劉懐君氏は胸中の喜びを押さえきれなかったまさか、いやいやこれぞまさしく1800年前の東漢(後漢)の豪傑、董卓の城塞「郿塢」ではないかと、小躍りせんばかりだった。
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上の写真は板瓦の参考品(現代のものです)
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 写真は筒瓦 半円形です。
 
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 写真は北京の紫禁城の屋根瓦(板瓦と筒瓦を組み合わせてある)
 
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       上の写真3枚は空心?の種類と使用例
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長安城の城壁の上。塼(せん。煉瓦)が敷き詰められている。写真はグーグルまっぷより拝借。
 
この遺跡郿塢城は柳巷城址と名付けられ、詳細は目下のところ研究中である。一辺の長さは160メートルの正方形で、周囲の長さは640メートル、城内の面積は25600平方メートル以上である。しかし漢代一般的な県城の規模とはかけ離れた小さな城である。漢代の一般的な県城は周囲の長さ2500メートル~6000メートル、面積は625万平方メートルから3600万平方メートルであるが、この城址(じょうし)はそれに比べるとわずか1/240から1/1400でしかない。漢代の規模からいえば甚だしく小規模なものといわねばならない。この城は遅くとも北魏のころまで使われていたそうです。
 
 
董卓の馳道
また、正史に記載はないが、董卓はよく郿と長安を往来した。そのための専用の馳道(ちどう。お成り道のこと)を作ったという。これは一般人は使用できない。?と長安を結ぶ古代のいわば高速道路である。その遺跡が陝西省戸県(古の?県である)に残っていて郿塢嶺と呼ばれていた。嶺といっても土を突きかためた土の山である。董卓の馳道の高さは3.4メートル、そこの広さは21メートル、頂上の広さは14メートルだったという。戸県(いにしえの鄠県)は董卓の弟、董旻が鄠県侯に封(ほう)ぜられた土地であるから、馳道が戸県(鄠県)を通過していても少しの不思議も感じない。
 
以上は『百度百科』と『中新網』の記事などを参考にまとめたものです。郿塢の所在は書物で想像するだけでした。想像の塢(とりで)は急ごしらえで荒々しく粗野なものだと思っていました。だから百官たちは野糞まみれで雨露すら凌げなかったと想像していたのです。その郿塢が麦畑から千二百年の眠りをから目覚めてくれて立派な姿を現してくれたのです。喜ばしいかぎりです。
また、この地には董卓が万人を生き埋めにした場所だとかの伝説が残っていたそうです。
※郿の漢字は眉+郎の右側です。文字化けして?になってしまいます。
「せん」の漢字は土へんに専です。
戸県の古称は「樗」の字から木偏を取り去り、「郎」の字つくりだけをプラスしたものです。
何度入力しても文字化けします。文字化けしないブログがあればお引っ越ししたいです。