丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 一百

              丁夫人の嘆き(曹操の後庭)一百
 
                《 これまでのあらすじ》
 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に董卓討伐の義軍が起こった。義軍は人望厚い袁紹を盟主に仰ぎ、関東の各地に拠った。意気たるや軒昂であるが、内心は董卓を恐れ、義旗のもとに集った者たちはて酒宴にいそしみなかなか戦おうとはしない。ただただ、日々集まっては論を戦わせて酒宴に明け暮れるばかりだった。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて出兵する。
 まずは雒陽攻めの拠点として成皋関を押さえよう。曹操は成皋関を目指して進むが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗を喫する。この戦で曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げた。曹操もまた股を負傷し、馬を失った。曹洪に助けられた曹操は彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。
 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長したが婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道である。今、雒陽や長安董卓の勢力下にあり、それ以外の道はさらに険しく困難を極めた。
 そこで博労の李は三明たちに、荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡る道をとらせたのだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
 胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路を成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
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陝西省漢中市漢台区 古蜀道秦関(金牛道)          
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        写真は四川省広元市剣閣県の古蜀道
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       山中を行く荷駄の群れ
 
 
 
 「みな揃っているな? 決して無断で列を離れるな」
 時々、朱は背後を振り返って声をかけた。そんなときの朱から柔和で如才のない商人の顔は失せて、武芸者の刃のような光をたたえた目にかわる。博労の親方は朱の素性を明かさないが、大賢良師の護衛だったらしいと推察がつく。
 「盗賊でございますか? 益州はよくおさまっていると聞きましたが」
 ここもやはり盗賊が跋扈(ばっこ)するのか、三明は眉をひそめた。
 李の親方は各地に散っていった黄巾の残党の知人を集めて、古蜀の国で『太平
の郷』をつくろうとしているのではないか? そのために三明に益州の民情を探らせようとしているのではなかろうかと、三明は旅の別の目的をそのように心得ていた。
各地で黄巾の残党が暴れていたが、李の親方は彼らに合流する気は毛頭もない。
 「ゆすりに騙り、懐中ものを狙う手癖の悪い輩から、荷物はおろか人までかすめ取って売る人攫いやら様々じゃわ」
 朱が苦い顔をした。
 思いのほかこの男はよい男かもしれない。なんだか三明はうれしくなった。
「そりゃむごい。わたしは不思議な男たちに出会いました。交州に抜ける道があるらしく、その者どもは益州からいずこへか姿を消しました」
「ああ、いろいろとありますぞ。噂には聞いておる」
「ほう、やはり」
 三明は頷いた。月華の夫はなんと度胸のよい奴だろう。新しい根城をつくるために未知の土地を求めて旅にでた。
「いわば命知らずが行く道ですな。山にすむ羌族はなんなく往来しますがね」
「さようでございますか」
「さあ、お疲れでしよう。一休みいたしやしよう」
 朱が汗を拭った。
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   後世に茶馬古道と呼ばれた道 四川省(ウィキペディアより)
 
 
 早朝の出発だったので宿駅で饅頭を食い少しまどろんだ。
 春の野辺に舞う蝶
 たんぽぽにとまり
 すみれにとまる
 蝶よ蝶よ、
 憂いなき蝶
 われもなりたや
 われも舞たや
 憂いなき蝶
 
 蝶のように軽やかに幼い青玲(せいれい)が舞う。青玲はどこかの長者の子で乳母に連れられて遊びにくる。青玲と遊ぶのは楽しかった。いつも迎えがきて青玲と乳母は駕籠にのって帰るのでどこの家の子かわからない。その青玲がなにやら声を張り上げている。
 三明ははっと飛び起きた。三娘もまた身を起こして伸びをしている。
 「さあさ、ごろうじろ。ごろうじろ……」
 宿駅の塀の外で見世物の呼び込みをする娘の声がする。声に誘われ三明はふらりと往来にでた。黄龍の綱をひきながら三娘が後を追う。なぜか首をふりふり朱が三娘に続いた。
 「ここなる童(わらべ)は、なにを隠そう仙人の弟子でござる。さあさ、ごろうじろ。この小さな足が……」
 市の雑踏に人垣ができている。年若い女の可愛い呼び声が人垣の中から聞こえてくる。
人垣の輪のなかからするすると綱がのびた。蛇が鎌首をもたげたような案配である。人の頭二つ分ほど抜け出ると、綱は思わせぶりにゆらゆら揺らいだ。と思うと、七つくらいの童子ひよっこっと顔をだし、猿のように身軽に綱の頂に腰をおろした。いかにも仙人の弟子らしい。目にも鮮やかな蝉の羽のように透ける衣を纏っていた。
「この童、仙人の弟子でござってのう、さあてこれより天へ使いに出ますぞ」
 達者な口上につられて胡三明は人垣に近寄った。金細工の朱は眉を跳ね上げ、小走りに人垣に突進すると、乱暴に見物の衆を押しのけて輪の中に入った。常軌を逸していた。なんだなんだと、三明は半ばあきれながらもあわてて朱を追った。
 朱はつかつかと口上を述べている女に近づき、はたとにらみ付けた。
 輪の中では、屈強な男が綱を持ち天に向かってするすると綱を伸ばしている最中だ。男の顔に驚きが走る。童子は赤黒い顔を熾り火のように赤くし、目をぱちくりさせた。  娘は首をすくめると澄まし顔で口上を続けた。
「おお、風がでましたな」
 風のなかを白い蝶がくるくると木の葉のように舞う。娘は手を伸ばしてひょいと蝶をつかむ。蝶は手の中で白い絹の蝶に化した。蝶に耳を寄せて娘は頷く。
「なになに、おおそうか。そうであったか、あの羽ばたき、聞こえませぬか。皆の衆よ、耳を澄まされい。仙人は今し方、ちと急用ができて鶴に乗って紫微宮めざしたそうな。ごろうじろ。ごろうじろ。天から降ってくる白いものは、鶴の羽根。仙人がおらぬとあってはこれにておしまい。おしまい」
 「なんだばかばかしい」
「騙りかい」
 人垣が崩れ、三々五々人は散っていく。
 「じいや。無事でなによりだ」
 娘はにいっと笑った。
「お嬢様、はしたない」
小声で朱が娘をたしなめる。
 じいやにお嬢様。えっ、いかにも田舎然とした小娘が良賢大師のゆかりの者か?
 体から力が抜けて行きそうだった。絶世の美姫、絶世とまではいかなくとももっと高貴な匂いをふりまいて欲しかった。娘は無遠慮なほど三明の顔を見つめた。
「おまえ、三明ではないか?」
 娘が目を細めた。
「……いかにも三明でございますが……」
 いぶかしげに三明は答えた。
「三娘という妹がいたはず、息災か?」
 娘が懐かしそうにくくっと笑った。
 三娘ならと、三明は背後を振り返った。
 三娘は黄龍の綱をしっかりと握ってこちらに歩み寄ってくる。
「おお、まぎれもなく三娘だ。よくぞ生き延びた……」
 娘は感極まって袖で目頭を拭い、顔をあげた。
 なんとしたことか、三明は目を瞬く。焼けて健康そうだった肌がそこだけ汚れが落ちたように白くなった。磨いた玉のように潤いがある白い肌が現れたのである。
 続く。
写真はグーグルマップとウィキペディアより拝借しました。