丁夫人の嘆き (曹操の後庭) 一百一

           丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 一百一
 
 
 天に向かって伸びていた綱は、男にたぐり寄せられるまま、しゅるしゅると縮んで篭の中でとぐろを巻く。
 「ほう、みごとだ、みごと。童子が綱をよじ登って天上界に桃を取りに行き、番人に手足や首を切り落とされるという天竺渡りの術だな。ああ、見たかったよ。俺は思うのだが……綱に鋼でも仕込んでいるのかい?」
 幻術使いの許は篭の中の綱に手を伸ばした。
「よしな!」
 綱をたぐり寄せていた大男が許の手を素早く払いのけた。
「乱暴な」
 むっと許は顔をしかめた。
「十五年もかかってものにした術でねぇか。そいつを盗もうという魂胆だな。許せねぇ!」
 大男が怒鳴った。
「盗む!よせやい。人聞きが悪い」
「ふん、薄汚ねぇ根性しやがって。命綱の秘密を盗もうとは太てぇ野郎だ」
「見損なうな。わしはけちな男じゃねぇ。卑しい真似なんざしゃしねぇよ」
 負けじと許が怒鳴り返す。
「口達者な奴は実がないと、昔から相場がきまってらぁ」
「これ、やめんか。向は律儀だが気が短すぎる」
  朱が割って入った。
  「およしなさい。客人に無礼はなりませぬぞ」
  姿をけした張娘がもどってきて向をたしなめた。
 向と呼ばれた大男は顔を赤らめて。いた。
「許さんよ。ここはわしの顔に免じて怒りを収めてくださらぬか?」
 朱は遠来の客を気遣ってか、いやに腰が低い。
「いや、なぁに、わしとて悪かった。あいつの大事な綱にさわろうとしたからのう」
 もともとさっぱりとした気性の男である、許は照れたように笑った。
 
 ところで三明たちは、戻ってきた張娘の顔をみて呆気にとられたのである。さきほどの赤ら顔の田舎娘がこれほど美しかったとは。
宿駅で顔を洗ってきたのだろう。白くなめらかな顔は光を弾いて神々しい。三明は雒陽の白馬寺でみた蓮の花を思い浮かべた。三明の驚いた顔がおかしかったのか、張娘は瞳に微笑をひろげた。春の日差しのようにやわらかな微笑だ。
 「覚えていないのか?」
「……」
 張娘は悲しそうに眉をひそめた。
「その腕輪」
 三娘の目は張娘の腕輪に釘付けになった。
 青い石で北斗七星を象嵌した金の腕輪に見覚えがあった。
「青ちゃんがしていた腕輪……」
 三娘は幼い日の記憶をたぐり寄せる。ちいさな青玲の金の腕輪には、青い石の北斗七星が光っていた。ぴかぴか光る腕輪がうらやましかった。いま、張娘はやはり北斗七星が青く光る金の腕輪をしていた。
青……玲……。青玲ちゃんなの?」
「やっと思い出してくれたのね」
 張娘の顔が輝いた。
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 写真は四川省広元市旺蒼県 旺蒼谷
 
ご大家の姫さまだと思っていましたが……まあ、よくぞご無事で」
 三娘は声をつまらせた。
「生きていてくれて……生きていてくれてありがとう」
 張娘は三娘と抱き合ってすすり泣いた。
「乳母殿は達者ですか?」
 三明の問いかけに張娘はかぶりをふった。黄巾の乱は十年以上も前のことだが、まだ心の傷はいえない。
 「さ、どこに役人の耳目が潜んでいるかもれぬ。積もる話は成都の館についてからなされよ」
 朱に促されて張娘は馬にまたがった。
 
 張娘はそのか細い肩に太平道の将来を背負っているのかと思うと、可哀想でならない。三明はおもわずため息をついた。
「世の中はずいぶんと変わりました。もはやわれわれの教えが表に出ることはありませんな」
 朱は独り言のようにつぶやいた。
 
 続く
 
 写真はグーグルマップから拝借しました。