さわやかな男

           さわやかな男


その日、魏の鮑(ほう)子都は日暮れにもかまわずに野を行くことにした。野原で一人の書生にであった。
書生は急に心臓が痛みだし。「こりゃいかん」と、子都は馬からおりて書生の心臓をさすった。しばらくすると書生は死んでしまった。
書生の荷物をしらべると袋の中に素書一巻と金の餅十枚が入っていた。
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写真は前漢時代(紀元前206から西暦8年頃)の金餅。いわゆる金貨です。皇族、貴族の間で使った贈答用のお金。1999年に大量に出土しました。
陝西省歴史博物館に展示されているもの。
photo by (c) Tomo :Yun    URL http://www.yunphoto.net
写真は上記URLの「ゆんフリー写真素材集」より


そこで金餅一枚を売って葬具を整え、書生を棺におさめて葬った。このとき残りの金餅を屍の頭の下におさめ、素書は屍の腹のそばにおいた。
それから数年がたった。
子都は道すがら、驄馬(あしげ)に乗った者たちに追われた。追いつくとその者は子都を盗賊と怒鳴りつけ、わが子の屍のありかを問うのだった。
心外なことであったが、子都は事の仔細をつぶさに告げた。真偽をたしかめるために、驄馬(あしげ)に乗った男たちを墓まで案内した。男たちは墓を開いて書生の屍を故郷につれて帰るつもりだった。棺をあけて屍をもたげると頭の下に金餅九枚があった。腹の傍らには素書があった。驄馬(あしげ)に乗っていた男やその一族はこぞって子都の徳義に感激した。このことで鮑子都は大いに名をあげたという。
太平広記 気義一 鮑子都より
 
: 『素書(そしょ)』は張良が黄石公から賜った兵書
 

 
唐の段成式「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)平凡社東洋文庫版に北魏の君子津(くんししん)という渡し場の名の起源についての話があったと思います。
洛陽の商人が君子津(内モンゴル黄河の渡し場だったと思います)で急死したが、荷物の中に金貨がたくさんあった。渡し守は商人の亡骸を金貨とともに葬った。後年、息子が商人を捜しに来て金貨が手つかずのまま亡骸と一緒に葬られていたので、感激したという。それを聞いた北魏の皇帝か大王かが「ああ、君子よ、のう」と感嘆してその渡し場の名を君子津と改めたというような内容でした。
そのとき、『金貨』が流通していたのか? と疑問も思いましたが、金餅のことだったのですね。
 
残念ながら金餅を実際にみた記憶がないので、大きさも重量もしりません。
宋代になるとググってみると銭との換算率が出ていました。