丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百五

       丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百五
      
 
 
         《 これまでのあらすじ》
 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に董卓討伐の義軍が起こった。義軍は人望厚い袁紹を盟主に仰ぎ、関東の各地に拠った。意気たるや軒昂であるが、内心は董卓を恐れ、義旗のもとに集った者たちはて酒宴にいそしみなかなか戦おうとはしない。ただただ、日々集まっては論を戦わせて酒宴に明け暮れるばかりだった。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて出兵する。
 まずは雒陽攻めの拠点として成皋関を押さえよう。曹操は成皋関を目指して進むが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗を喫する。この戦で曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げた。曹操もまた股を負傷し、馬を失った。曹洪に助けられた曹操は彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。
 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長したが婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道である。今、雒陽や長安董卓の勢力下にあり、それ以外の道はさらに険しく困難を極めた。
 そこで博労の李は三明たちに、荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡る道をとらせたのだ。
水上もまた盗賊の跳梁する場であった。安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
 胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路を成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘から許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、それはなんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。

                  第一百五回
 
 遠雷が韋駄天(いだてん)のように三明たちを追いかけてきて、派手に太鼓を打ち鳴らす。
 「嫌なものを思いださせやがるぜ」
 思わず三明は口走っていた。
「ほう、お前さんもか? 」
 短刀使いの許がにやっと笑った。
「こりゃ総勢五万の軍鼓だ、雷公も威勢がいい」
 雷鳴のせいでまともな声では聞き取れない、幻術使いの宋が怒鳴った
「なんてこった。乱世を生きねばならんとはのう」
 火炎使いの石がわめいた。
 黒雲に閉ざされた空はたそがれ時のように暗い。暗い空を稲妻が切り裂く。黒い巨大な卵が裂けて新しい盤古がぬっと誕生しそうな気色だ。黄龍が鼻をひくつかせてうなり声をたてた。
「おや、黄龍たら……。兄さん、殺気だよ。風が殺気を乗せてきたのよ」
 三娘が叫んだ。
「殺気だと」
 血の臭いが嗅げるわけでもないのに、三明は犬のように鼻をうごめかす。「馬鹿ね」と、張娘が声を立てて笑った。
「殺気だ。大男よ、荷物は馬にまかせてしっかり張娘を護れ」
 ばつが悪かったのか、三明は背負子に荷物を山ほど積んだ大男に八つ当たりした。
「さっきから大男、大男とはなんだい。わしには馬という立派な姓がある」
 大男は張娘が三明となれなれしいので、物言いがとがってきた。 
 
 大粒の雨が音を立てて乾いた地面を叩きはじめた。
「こりゃいかん、走りますぜ。この先に斗姆(とぼ)さまの堂がある」
馬子が大声で叫んだ。
「おお、そりゃありがたい」
 馬子の後を追って三明たちは走った。この雨だ、張魯の斗姆だからとて拒む理由にならない。
 さすがに張魯の教団はすごい。駆け込んだ斗姆宮は、道観と呼ぶにはいささかこじんまりとしすぎていたが、道場まで備わっていて、この人数を入れても余りある。廂の下に馬を避難させ、三明たちは堂の中に入った。三娘は犬が西向きゃ尾は東堂内に入れるのをためらい、堂の入り口で黄龍と一緒に雨をしのぐことにした。黄龍の濡れた体を布で拭ってやったが、なんだか黄龍は機嫌が悪い。
 「雷が怖いのかい? おまえは雲霧をよび雷鳴とともに天を翔るのだろ?」
 おかしくなって三娘は黄龍の首をかるくたたいた。
 堂の中の祭壇には、張娘が許嫁から贈られた鏡の図像に似た、ふくよかな女が子を抱き乳を含ませている像が安置されていた。これが斗姆なのかと、三明ははじめて目にする斗姆像に見入った。まわりには天皇大帝、紫微大帝などとおぼしき北斗の星々の像が並んでいる。
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 道教の斗姆元君像 三目四面八臂で日、月、弓、矛などをもつ姿で表される。
 私の推定では原型は子をだく母子像だったと思う。仏教の影響をうけてこのような姿になったと思う。  写真は中国版WIKIより拝借
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写真中央が玉皇大帝     写真は中国サイトの「劉泥塑工作室」より拝借しました。
 
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現在に残る斗母宮              陝西省宝鶏市太白県の山中 写真はグーグルマップから
石積みの規模は大きいが、現在では小屋程度ですね。
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老君廟 陝西省西安市長白県 写真はグーグルマップから拝借
 
 
 
 「ようおいでになった」
 堂の奥の暗がりから枯れ木のような翁が現れた。逍遙巾をかぶっていたから道士だろうか。
「濡れなすったか。奥の竈(かまど)に火が熾っていますぞ。白湯でも飲んで濡れた服を乾かしなされ。一刻もすれば雨も止みましよう」
「かたじけないのう、道士どの」
「いやいや、たいした修業などしておらぬ。わしはここに住むただの堂守ですわい」
 老人は謙遜したが、節くれ立った指の胼胝(たこ)がただの堂守でないことを如実に物語っている。いずれの山中で修業したのか……武術の方はたいしたものだろう。とりあえず、一行は堂守について奥へとむかった。
 
 雷鳴が天地を揺るがせた。辺り一面、白い帳をおろしたような雨の幕だ。黄龍が牙を剥き目を怒らせた。雨の帳のむこうで何かが動いように思えて、三娘は身構えた。目を凝らしても怪しいものは……雨の音がおかしい。気のせいか、何かが雨の中を移動している。黄龍が吠え、白い帳の中へと身を躍らせた。その瞬間、短剣が三娘の頬をかすった。
「何しゃがる」
 若い男の声が響いた。私を狙うとは許せない。声のするほうへ三娘は走った。男と黄龍が戦っていた。男は剣を振りかざしている。黄龍にまだ噛みつかれていない所を見るとこの男、ただ者ではない。
「おまえ、何者だ」
「怪しい者ではない。雨宿りに立ち寄っただけだ。この馬鹿狗をどうにかしろ」 
黄龍、こっちへおいで」
 三娘に制されて黄龍が三娘にすり寄った。
「怪しいね。怪しすぎる。おまえ、私を狙って短剣を投げたね」
 先ほどの殺気はこの男のせいに違いない、三娘は男を睨んだ。
「ははは。おまえに当り損ねたか。ぴんぴんしておるからいいじゃないか」
 涼しい顔で男は言ってのけた。なんと尊大な若者だ、人を殺めたかもしれぬ所業を謝ろうとはしない。
「謝らないのか?」
「謝る? 狗をけしかけたのはおまえだ。おまえが謝れ」
  若者はせせら笑った。美しいがそれだけの男だ、薄い唇が薄情そうに映じた。
「郎君、お怪我はございませぬか。ささ、こちらの軒先へ。いつまでも雨に打たれていると風邪を引きますぞ」
 主君にようやく追いついたらしい恰幅のよい下男が、軒先へと若者を誘い、憎らしいほど大仰に主の体を事細かに調べてなでさする。
  そのとき堂守と三明たちが現れた。
「おや……段の若君……」
 金細工商の朱は絶句した。
「若君。なぜ
ここに……」
 張娘の目に狼狽の色が揺らぐ。
「青玲、そなたが成都を出奔したと聞いて追ってきたのだ。そなたは無謀ではらはらさせる。悪い奴らにさらわれやしないかと心配したぞ」
 段が張娘の手をしっかりと握りしめた。張娘はあわてて段の手をふりほどいてしまった。
「子細ありげじゃが、まずは竈の火で暖まりなされ」
 堂守は段を誘うと三娘と黄龍にも奥へと誘った。
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         道教の帽子。逍遙巾 道士の装束である。
           中国の道教装束のネット通販のサイトより拝借
 
つづく