北魏の『御苑』は万里の長城だった

      北魏の『御苑』は万里の長城だった
 
         《内蒙古新聞網《内蒙古日報》14-08-07 09:20》より
 
 2013年末、内蒙古自治区文物考古研究所長城資源調査プロジェクトグループが二年以上にわたって再調査した結果、驚くべき結論内蒙古自治区文物保護単位である北魏御苑遺址』はまさに漢代の長城であり、かつ「几」の字形に構築されていたに達した。
 その結果、専門家の見解は「これにより世界最大の建築規模の文化遺産である万里の長城の距離が46キロメートルも増加した」ということで一致した。
 
 
 『北魏の御苑はどこだ?』
 (2014)614日、記者は考古学の有名学者ともに内モンゴル自治区、烏蘭察布(ウランチャブ)市の灰騰梁(かいとうりょう。フィタンリャン)草原に到着した。
 
 
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ウランチャブ市九十九泉の度暇村 北魏御苑の北魏にちなんで牛の像がある。
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鮮卑拓跋部は南へ移住するとき困難をきわめたが、「その形、馬に似たり。その声、牛に似たり」という聖獣に導かれてようやく匈奴の故地に入ることができた。
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  格闘の実演
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馬術実演。一人で二頭の馬を操る
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 落馬ではありません。馬を走らせながら拾い物をする実演 
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拾いました。さすが草原の民
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ウランチャブ市九十九泉 水草豊かな高原である。
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モンゴル包(パオ)の形をしたホテル
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お疲れさま。ホテルの室内
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九十九泉の日の出 風力発電の風車はいたるところにあります。
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風力発電機の羽根をつんだトレーラー 河北省から国道を通過して内モンゴルに物資が流れ込む。
 
 
 自治区文物考古研究所副所長の張文平研究員は語った。
「九十九泉は湖と呼ばれ、最も早い記載は『魏書』であり、武要北原と称され、数多くの湖があるので九十九泉とよばれた。灰騰梁の東に火山岩が分布している区域があり、石漠と呼ばれた。九十九泉の呼び名はそのまま『遼史』『元史』に継承された。
 
 灰騰梁は卓資県にあり、察哈尓(チャハール)右翼后旗察哈尓(チャハール)右翼中旗が交わるあたりにあり、陰山山脈中の大青山の東がわにあたり蒙古高原、黄土原、河套平原、察哈尓(チャハール)丘陵の結合部に位置している死火山の火口に風で運ばれた砂塵が堆積したあとに、雨水がたまり形成された数多くの小さな湖である。
 
 まもなくわれわれは「太陽卜」という地方に到着したが、ただ路傍に明らかに道路くらべて34メートルの高さがある土の堆積をみた。もともとこの中にかつての北魏の御苑遺址があった。墻(かき)の長さは46.585千メートルにわたり、そのうちの墻そのものが現存する部分は43.955千メートルである。土の墻の長さは34.575千メートル、石の墻の長さは9.38千メートルである。墻の沿線およびその周辺には烽燧(ほうすい)46カ所、障城10カ所がある。

注*烽燧(ほうすい)
  のろし台のこと。
注*障城
  とりで。要塞のこと。
 
とても長い記事で、しかも漢字が多すぎますので何回かに分けて載せます。
拙い訳ですみません。
写真はすべてグーグルマップから拝借しました。