続 北魏の御苑は万里の長城だった

 
   続 北魏の御苑は万里の長城だった
 
 灰騰梁の土墻の構造は、外側に濠を掘り、内側はうずたかく土を盛って突き固めてある。
 土墻は、(こう)という「土を叩く道具」を使って土を突き固め、突き固めた土を幾重にも積み重ねて造られるので、土の層が観察できるが、ここの土墻は、土の層は明らかではない。
 保存が比較的良好な土墻のくぎりは、河北省尚義県の三蓋脳包長城遺跡のように良好である。
 墻の底部の厚さは57メートル、上部の厚さは24メートル、残っている墻の高さは11.5メートル。
 石墻は比較的少なく、主に起伏が比較的大きな山や丘の間、あるいは山や丘の頂上部に建造されている。現地でたやすく手に入れることができる火山岩を積み上げて墻を築いた。
 石墻の中では杏桃溝長城が相対的に保存がよい。底部の厚さは57メートル、上部の厚さ34メートル、残存の高さは0.51.5メートルである。
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九十九泉度暇村 
 
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内蒙古ウランチャブ市灰騰梁 西漢の杏桃溝段長城 中国新聞網より
 
 
烽燧は土で築かれたものと石で造られたもの、土と石を混ぜて作られたものの三種類の構築様式に分類され、多くは墻の内側に分布する。 
障城は六個が墻の内側に分布している。平面で多くは方形である。一辺の長さは50メートル前後である。障(とりで)の墻は等しく底部が厚く上部が狭まっていて、石を築かれたもの、土で築かれたもの、土で築いた上に石を積み重ねたものの三種類がある。障城と障城との距離は多くは10キロメートルである。
 
誰がここを発見したのか?
 二十世紀の80年代初め、一人のマニアックな長城愛好家が灰騰梁を踏破し、これは「たぶん秦漢時代に建てられた長城の一つかもしれない」と推測した。そのあと内蒙古文物考古研究所の李逸友先生が踏査し、北魏の九十九泉御苑遺であるとはっきりと認めたのである内蒙古文物考古研究所はまさしくこれを北魏九十九泉御苑遺址と認めて、北魏遺存として調査に取りかかった。
 
注*
遺存とは
 大約すれば古代人の残した構築物(住居、宮殿、墓など)や遺物(文化的産物である品々)の両面から歴史を解明する研究姿勢をさす、中国独特の用語。
 
2013年、内蒙古文物考古研究所編撰の『内蒙古自治区長城資源調査報告・北魏長城巻』によれば、再調査の結果、発見したことは、址はまさしく御苑ではなく、これは「几」の字型の西漢(前漢)の長城であることだった
 内蒙古自治区長城資源調査プロジェクトグループは、ウランチャブ市博物館、チャハール右翼中旗文物管理所とタイアップして重ねて調査をやり直した。
 いわゆる御苑を囲む墻はすなわち長城の墻であり、物見やぐらは烽燧(ほうすい)で石亭はまさしく障城であった。西漢の長城の要素―墻、烽燧と障城、灰騰梁上に遺存するのはまさに西漢の特徴を完備していて、これぞまさしく漢の長城である。
 
北魏武帝拓跋珪は本当に石亭を造ったか?
 ある学者は『魏書・太祖紀』の記述を根拠に、道武帝拓跋珪は石亭を造ったと考えている。はたして灰騰梁の西漢(前漢のこと)長城中に北魏の遺迹はありや、なしや?
 
 上記の学者とは立場がちがう学者たちは、これを疑問視している。
 張文平の解釈はこうだ。
 『魏書』中、拓跋珪の武要北原での活動について記載されたれた動詞「造」を観ると、「造」は到る、去るという造訪の意味を含んでいる、したがって「建造した」のではない。
 秦漢時代は、烽燧(ほうすい。のろし台のこと)、亭障(ていしょう。とりでのこと)をも指して長城と述べることが多い。「石亭」はまさしく烽燧等の遺跡をさしている。したがって、「造石亭」とは、道武帝が避暑の間、前の王朝の名勝古跡を遊覧したことを指す。
 灰騰梁上に分布する広大な面積をしめる火山岩は地表にむき出しで、また、つまいに石漠に行くの記載とあい対応する。
まさしくこれは『魏書・太祖紀』の「武帝西行き武要の北原に登られ九十九泉を観る」という記述にあう。
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        三道営古城 互動百科より
 
考古工作者は三道営古城が、西漢の定襄郡武要県の県庁所在地だったこと考証した。
 『漢書地理志』に、西漢の定襄郡を東、中、西の三部に分けて都尉を置き、都尉に辺境の軍事を任せた。東部都尉は武要県に役所を置いていた。『居延漢簡』に依拠して漢代の辺境防衛を体系的に研究すれば、都尉の率いる下に候官、部、燧の三級の軍事制が設けられていて、候官は一要塞の最高指揮官である。したがって灰騰梁長城の分布範囲と規模をみるに、まさしくこれは西漢の定襄郡の東部都尉治下の一要塞の遺跡である。
また、浪素海障城は全体の要塞の中部に位置するが、その面積は他の障城にくらべて大きく、候官が駐屯していた可能性がある。
 
「几」の字形の長城の役割
 
144平方キロメートルにわたる広大な灰騰梁を眺めると、2000年以上も前の馬の蹄のとどろきが聞こえ、遠くから戦う声が聞こえてきそうだ。几の字形の長城は、水と草が豊かな高山と草原をまるごと包みこんだためにこのような形になった。学者の説明によれば西漢の長城の東南端は、卓資県の巴音錫勒鎮三岔子村の東にある三岔子障城より起こり、まさしく障城は山稜の下に分布し東、南、西の三差路上で交差点にあたり、遊牧騎馬民族の侵入路を食い止める有効な役割をはたしている。
 西南端の墻は灰騰梁のへりで止まり、再び南に向かって険しい山を通過する。烽燧、障城は途切れることなく伸び、だいたい蛮汗山の秦漢長城につながっている。
西漢の定襄郡、東部都尉の役所は武要県故城に置かれていたので、この地点でつながることはとは好都合だった。秦漢時代になると、三道営古城以東は戦国趙の北の長城を継承せず、この南に新たに一つの長城を修築したが、この長城は岱海(たいかい)の北岸に至って再び折れ曲がって東へと向かうが、これが「蛮汗山秦漢長城」である。
 
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ウランチャブ市凉城県岱海湖(たいかいこ)
「蛮汗山秦漢長城」以東、以北の地区は秦、西漢の二王朝時代には長期にわたって匈奴が占拠した。
東漢(後漢のこと)時代になると鮮卑拓跋部が占拠したが、ここは匈奴の故地と称された。また、東漢時代には武要県の辺境防衛の軍事制度は廃止され、灰騰梁長城はこれにともなって廃棄された。
 
以上内蒙古新聞網《内蒙古日報》14-08-07 09:20》より
使用した地図、写真は但し書きのないものはグーグルマップから転用いたしました。