丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百六回

     丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百六回
 
        《 これまでのあらすじ》
 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に董卓討伐の義軍が起こった。義軍は人望厚い袁紹を盟主に仰ぎ、関東の各地に拠った。意気たるや軒昂であるが、内心は董卓を恐れ、義旗のもとに集った者たちはて酒宴にいそしみなかなか戦おうとはしない。ただただ、日々集まっては論を戦わせて酒宴に明け暮れるばかりだった。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて出兵する。
 まずは雒陽攻めの拠点として成皋関を押さえよう。曹操は成皋関を目指して進むが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗を喫する。この戦で曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げた。曹操もまた股を負傷し、馬を失った。曹洪に助けられた曹操は彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。
 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長したが婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道である。今、雒陽や長安董卓の勢力下にあり、それ以外の道はさらに険しく困難を極めた。
 そこで博労の李は三明たちに、荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡る道をとらせたのだ。
水上もまた盗賊の跳梁する場であった。安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
 胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路を成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘から許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、それはなんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
                  第一百六回 
 
 堂守は一同を奥へと急き立てると、堂の入り口を睨んで動かない。三明はぶるっと身をふるわせると立ち止まった。
 「おやっ。お若いの、感じるのかね」
 入り口を睨んだまま微動だにせず堂守が言った。
「はい」
 三明が頷く。
「獣か……人の心を持たぬ獣が来たぞ」
 堂守がつぶやいた。
「どうした?」
 火炎使いの石が三明にささやく
「妖気だ、ありゃ殺気じゃねぇ。人ならぬものが放つ妖気だ」
 三明が眉をしかめてささやきかえす。
「おお。わしも先ほどから嫌な感じがしてならないのだ」
  石がしきりにあたりを気にした。
「嫌よ。放して!」
 張娘の悲痛な叫びが響き渡った。
 振り返ると、段の若君が張娘の腕を掴んでどこかへ連れ去ろうとしている。
「許しませぬ」
 駆け寄った胡三娘が、段の腕をねじり上げた。
「郎君になにする!」
 怒った段の下僕が三娘に掴みかかる。すかさず張娘の護衛役の馬という大男が下僕を羽交い締めにした。
 そのときだった。
 黄龍が吠えながら堂の入り口へと走った。金細工商の朱が黄龍を追う。
 朱は扉を背に眼前の滝のような雨をじっと睨んだ。背に佩(おび)びていた剣を抜きはなった。
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道士の佩剣  写真は騰迅 道教 道士の服飾図版より
 
「そこだ!」
 朱は跳び、横に真一文字に雨を切り裂く。白い雨がすぱっと切れ、猿のような男が顔を真っ赤にして歯がみしているのが伺えた。
と、同時に、数歩先さえかすんでいた靄(もや)が嘘のように薄れだす。
「術敗れたり。おまえは劉益州(劉焉のこと)の刺客」
 刃と刃が交わり火花が散った。
「おまえはやはり張角の北斗七人衆だっ。生かしておけぬ」
 猿男は空に跳び、朱の頭上に落下する。捨て身の構えである。
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写真は騰迅 道教 道士服飾図版より
「北斗七人衆、知らんな」
朱は素早く後ずさりした。猿男の剣は朱の脳天に刺さったかに見えた。が、足を掬われて地にもんどりを打ったのは猿男である。堂守の杖の一撃を喰らったのである。すかさず朱は猿男の喉もとに剣をつきつける。黄龍は男の腕に噛みついた。
「いてて。この狗め」
 猿男の手から剣がこぼれ落ちた。すかさず黄龍は剣を銜えて三娘の側に駆け寄った。
「おまえは劉益州(劉焉のこと)の刺客だ。人はおまえを貪狼(どんろう)と呼ぶ」
「……」
「貪狼はもともと北斗の七つ星の一つだが、おまえにあっては貪欲残忍な性根ゆえに人はそう呼ぶ」
「……」
「劉益州はなぜわれらを狙う」
「劉の殿様に聞いてくれ。頼まれりゃどこまでも命を頂きに行くだけ。それが刺客というのさ」
「刺客にも義というものがあろう。荊軻(けいか)のように。おまえは酒手欲しさに人を殺す獣だ。劉益州に伝えろ。州牧ともあろうお方が善良な民をつけ狙うとは感心いたしませぬ、とな。さあ、行け」
「おいおい。情けは身を滅ぼすもとじゃないかい」
猿男が毒づく。
「ほら、忘れ物だよ。おまえの剣は妖気がぷんぷんする」
 三娘が猿男の剣をなげた。
「へん、虎狼をみすみす野に放つのかい?後で泣くのはおまえたちだぜ」
 猿男は鼻先でせせら笑い雨の中に消えた。
「なぜひと思いに殺さなかったのじゃ?」
 堂守が顔をしかめた。
「先ほどはかたじけない。血で斗姆(とぼ)さまの境内を汚したくなかった」
 朱は丁寧に頭を下げた。なんと朱は左肩から血を流しているではないか。
「おお、やられたな。刃に毒を塗るのが奴らの流儀での、腐ってくるのだ全身が。ささ、わしの秘薬を差し上げよう」
 奥の別坊へと進む傷ついた朱を見て、柱に括りつけられた段がにやりと笑った。
「娘との婚約は無かったことにしましょう」
 朱の言葉に段がげらげら笑
った。
「貪狼の毒に当たったな、文昌星が消える」
「そこの嘴(くちばし)の黄色のよ。北斗七人衆が大賢良師の秘宝を護っているとは朝廷が流した流言飛語だ。根絶やしにするためのな。七人衆などもともと存在せぬ。良師の残された秘宝とは、真の太平の道のこと。よいか、娘には指一本触れさせぬぞ」
 朱は段の若君をきっとにらみ付けた。朱の目から稲妻が走った。
「あっ、何をする。やめろ、やめろ。頭が割れそうだ」
 段が身をよじる。
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                    斗姆像 写真は中国版WIKIより拝借
 
雨が上がると青ざめた朱が、両脇を張娘と三明に支えられ堂を後にした。
「ひっひっひーっ。文昌も三日はもつまい」
 柱にくくりつけられた段が笑った。張娘は段に駆け寄ると段の頬を平手でぶった。
「おっそろしく気が荒い新婦だ」
「殺されたってあなたの新婦になるものですか」
 張娘はもう一度、段の頬に平手打ちを食らわす。
 
 三明たちは今来た道を引き返す。その後を驢馬にまたがった堂守が追う。
「眠ったような日々からようやく目覚めたぞ。わしも荊州へ行こう」
 堂守はそうつぶやくとにいっと笑った。驚いたことに笑顔が思いの外若い。
「ふっふっふ。曹操か……三明たちが仕える曹操はどんな男だ。この目で劉荊州袁紹をみてやろうではないか。人生、退屈知らずじゃぞ。いやになったら廬山(ろざん)に引き籠ろう」
 驢馬の背中で堂守は瓢(ふくべ)に口をつけて酒を飲んだ。雨上がりの空に虹がかかっている。
    
つづく。