いとたおやかな豪侠
いとたおやかな豪侠
豪侠とは、すぐれて強く侠気に富むこと、もしくはすぐれたおとこだてをいう。
唐の進士、趙中行は温州に居を構えていた。豪侠でもって知られていて日々、侠(おとこぎ)に開け暮れた。
中行は蘇州に行き支山禅院に泊った。僧房に女がいた。女は商人で名を荊十三娘という。亡夫の大祥(たいしょう)の斎(とき)をとりおこなっていたのである。
水色で囲った文字が蘇州市緑色で囲った文字は揚州市
赤で囲った文字が鎮江市 地図はグーグルマップより。
注*温州
今の浙江省温州市
注*豪侠(ごうきょう)
すぐれたおとこだて
注*蘇州
注*大祥(たいしょう)
葬後の祭りの名。
十三カ月で祭るのを小祥、二十五か月で祭るのを大祥といい、二十七 カ月で祭るのを禫(たん)という。
唐の時は十三日で小祥を、二十五日で大祥をおこなった。
また、三周忌をいう。
*ここでは三周忌と解したほうが筋がとおる。
禅院で豪侠の趙に出会った十三娘は、趙を慕うようになった。二人はついに十三娘の車に同乗して十三娘の家がある揚州に帰った。
注*揚州
今の江蘇省揚州市。
揚州市 写真はグーグルマップより。
趙の「おとこだて」のせいで荊娘の財産は減ったが、荊娘は意に介さなかった。
趙の友人、李正郎の弟の三十九には愛する妓楼の女がいた。妓女の父母はそれを知りながら娘を諸葛殷に与えたのである。李は恨み嘆いた。
諸葛殷と呂用之が太尉の高駢(こうべん)をまどわし、威福をほしいまま にしていた。かれらに目をつけられて一族皆殺しにあった家は数百にも のぼる。それゆえ、李は禍(わざわい)を懼(おそれ)て涙を飲むしかなかっ た。
たまたま李は荊娘に会う機会があった。やつれた李をみて荊娘がわけ を問う。李は荊娘に事情を話す。わけを知った荊娘は怒った。嘆いた。 そして李三十九に「たやすいことではありませんか。三十九郎どのの仇 を討ってみせましょう。あした、江をわたってください。潤州の北固山 で六月六日の正午、わたしが来るのをお待ちなさい」 きっぱりと断言するので、李もまた荊娘にまかせきった。
鎮江市、北固山山頂の寺院 グーグルマップより。
注*潤州は今の江蘇省鎮江市
約束の時がきた。三十九郎のまえにおおきな袋を持った荊娘が現れた。 袋をあけると妓女が現れたのである。「仇は討ちましたぞ」と、あわせて 妓女の父母の首まで差し出した。
驚きあきれる三十九郎を残して、荊娘は夫の趙とともに浙江の流れに舟 を漕ぎだし、いずこへともなく姿を消した。
太平広記 豪侠四 荊十三娘より Chinese Text Projectより
意訳で補いました。これは非常に人気があって、さまざまな小説が書かれました。
なぜ、三十九郎が涙を飲むしかなかったのかは、中国版のウィキペデイアや百度百科をみればわかります。
サービスに私のノートより
呂用之(中国版ウィキペディアより)
(?~887年)鄱陽(江西省波陽県)安仁里の人。父の呂璜(ろこう)は淮河の南北と浙江の間を頻繁に往復して茶を売って暮らしていた。早くに父を亡くした用之は、母方のおじに身を寄せたが、罪を犯して九華山に亡命し、方士牛宏徽に師事した。そこで「役鬼神の術」を修得した。広陵(江蘇省揚州市)の市で薬を売っていた。ある日、淮南節度使の高駢の武将兪公楚を尋ねていき、高駢に目通りする機会を得た。ついにその幕府に入ることとなり、高駢に重用された。
高駢は「神仙の術」を好んだ。呂用之は張守一、諸葛殷などの人を高駢に引きあわせた。呂用之に惑わされた高駢は彼に為政をゆだねたが、彼は古くからの高駢の武将を次々と殺したので部下の心は離れて行った。おのれに異を唱える者は,どんなに身を慎んでも,禍を逃れることはできない,破滅においこまれた家は数百家にだ。将校のなかには累足屏气、つまり非常に恐れたという。
中和四年秋、劉損という商人が家族をつれて揚州についた。その妻の斐氏は国色ものの美女だった。呂用之は劉損を牢獄に入れて斐氏を奪い取った。
高駢に投降した黄巣の武将、畢師鐸には寵愛する側室がいた。呂用之は彼の外出をみはからって、畢の役所に闖入して畢の側室を強引に犯してしまった。畢師鐸はこれを知って怒ったが敢えて怒りを口外しなかった。光啓三年(887年)、ついに畢師鐸は叛き、諸将と連合して揚州を攻めた。高駢はこの事情を知ってまさに呂用之を呼んでこれを詰ろうとした。呂用之は慌てふためいて逃走した。廬州刺史の楊行密のもとに奔った。まもなく性懲りもなくもとの本性をあらわしはじめたので、楊行密は呂用之を腰斬の刑に処した……。
注*末尾の……の後の数文字は、気持ちが悪くなるのであえて記載しません。