丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百七回

   丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百七回   
              
       《 これまでのあらすじ》

 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
 雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
 曹操は成皋関を目指して進んだが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗した。この戦で、曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げる。
 曹操もまた股を負傷し馬を失った。危ういところを曹洪に助けられた曹操は、彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。

 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長し婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道であるが、雒陽、長安董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
 安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘から許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、それはなんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
 張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
 この堂守は三明たちが仕える曹操や劉荊州などをこの目でみようと、三明たちを追ってきた。へんな男で年寄りかと思えば意外にも若やいだ表情をみせる。

                  第一百七回 

 高熱のせいか、朱は木の葉のように舞ながら天井を浮揚していた。
「爺や。目を開けておくれ」
 張娘の声を幾度となく聞いた。ときどき、ひんやりとしたものが体を撫でるだれかが朱の体を濡れた手ぬぐいで拭いているらしい。
  夢うつつに大賢良師が丹薬をかみ砕いて朱の口に含ませた。
「さ、飲み込みなさい。死んではならぬ。長生きしておまえわしの孫娘をまもらねばならぬぞ」
 三明が眉をひそめ、黄龍の首を軽くたたいた。
「猿面の刺客か?」
 なおも三明が黄龍に問う。
  「猿面なら心配いらぬ」
 夢幻道士はにっと笑った。
「……」
「奴なら己の刀の毒で今頃腕が腐ってるはずだ。一寸にも満たぬ傷だが、しかとわしは見たぞ。奴の剣が奴の腕をかすったのを。くっくっくっ」
  夢幻道士は懐から手あかで汚れた小さな革袋をとりだした。五色の色糸を編んだ紐で袋の口は縛ってあった。その革袋を夢幻道士はぽんと天井に放り投げた。革袋は吸い込まれるように夢幻道士の掌のなかに落下する。
「これは猿面の腰にぶら下っていた毒消しだ。わしがすぱっと紐を断ち切ってやったのさ。この薬をわしは朱殿に使ったわ」
 夢幻道士が豪快に笑った。
  風采のあがらない道士を三明は心底から恐ろしいと存在だと思った。
朱は懐かしい人の声を聞いてはらはらと涙を流した。
「わが師よ……」
「爺や。どうして泣くのか?」
 張娘の声に、朱がぱちっと目をあけた。
「爺やが目をあけた」
 張娘が白い花のように笑った。
「おお、気がつかれたか」
 斗姆宮の堂守が顔いっぱいに笑みを広げた。
「大丈夫だ。熱にうなされておいでだったがのう、そのほうは日頃から内丹を鍛えておったから、こんこんと眠りながらも解毒の呼吸法を忘れなかった。毒は消えましたぞ」
 堂守の言葉に部屋は興奮に包まれた。よかったわと、三娘は張娘の手を握りしめた。張娘はぽたぽたと大粒の涙をこぼしている。
「ここはどこだ」
「爺や。ここはもう船着き場ですよ。この川は江水の支流で、川を下ると巴陵に着くそうです。爺やを輿に乗せて運んだのですよ」
「刺客が追ってこんとも限らぬから、あわてましたぞ」
 三明たちはうれしそうにぐるりと朱をとりかこんだ。
「ああ、わしは眠っていたのたか」
「そう。爺やは七日の間、死んだように眠っていた」
「ほう、そうなるか……」
 朱は弱々しく笑う。
「あとはわしがこさえた煎じ薬と滋養のある物を食べて体力をつけなされ」
「かたじけない。道士どの」
「なんのなんの。わしの名は夢幻道士。泰山で修業のまねごとをした」
 夢幻とはまた人を喰った名だ。しかし、道士は大まじめな顔である。 
 黄龍が低いうなり声をたてた。
「来たのか? 追っ手が」
 「どうして黄龍は不機嫌なのだろう」
 探るように三明は夢幻道士の顔をうかがう。
「女みたいな顔をした若様だろうよ」
 夢幻道士がこたえた。
 その言葉に三明は、道士はすでに段が後を追ってきているのを知っていたと確信した。
「張娘を連れ戻さないかぎり、おのれの立場が危ういってことか? その背後には劉益州がついているということか?」
「まぁ、そんなところだが、益州というよりは五斗米道の張だろうよ。あのおっかさんときたら抜け目がない。」
「あのとき斬っておくべきだった」
 三娘が唇をかむ。
「それは張娘が決めることだ。少しでも未練があるのならだめだよ。これは朱殿と張娘にまかせよう」
 三明が三娘を宥めた。
「未練はない。卑しい下心を知ったときから、あの顔を思い浮かべるたびに虫酸が走る」
 張娘がはき捨てるように言った。
「卑しい下心? 一体何だそれは」
「北斗七人衆の背中には宝のありかを記す刺青があるというのだわ、あの男は」
「そんなものありはしない。断金のちぎりを結んだ七人の男が北斗星にちなんで『文』や『司』や『狼』などの刺青を背中に入れた。まったくもって若気のいたりじゃ。戦で死んだら背中の刺青を見て屍を拾ってくれとな」
 朱が苦笑いした。
「ほう。世の中の噂とはそんなものだ」
 夢幻道士はおかしそうに笑い、剣を鞘から抜いた。
「おいでなさったのう。嘴(くちばし)の黄色いの。わが剣は斬馬剣、ひと思いに黄泉路をたどりたい者は来い」
 夢幻道士がからりと戸をあけると、走って逃げる二人の男の姿が見えた。
「けちな夢は見るなよっ。虚妄で命を落とす馬鹿者めが」
 道士は剣を振りかざしてがなりたてた。
 斬馬剣だと!
「ああ」
 思わず三明はため息をついた。この間抜け面の道士はどのような経歴の持ち主なのか。謎だ、謎だ、あまりにも謎めいている。
 
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漢代の剣 刀身と柄の間に抜くときに指を傷つけないように金属で飾りをつけてある。
貴人の装飾用の剣には
 
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このようなヒスイの飾りをつける。
一般の兵士はこれが装飾のない銅の帯になる。
写真は百度百科より。       
 つづく