丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百八回

    丁夫人の嘆き(曹操の後庭)第一百八回
    《 これまでのあらすじ》

 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
 雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
 曹操は成皋関を目指して進んだが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗した。この戦で、曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げる。
 曹操もまた股を負傷し馬を失った。危ういところを曹洪に助けられた曹操は、彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。

 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長し婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道であるが、雒陽、長安董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
 安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘から許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、それはなんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
 張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
 この堂守は三明たちが仕える曹操や劉荊州などをこの目でみようと、三明たちを追ってきた。へんな男で年寄りかと思えば意外にも若やいだ表情をみせる。

   第一百八回               


 斗姆道士は剣格に装着された白い翡翠をみつめた。螭(みずち)が浮き彫りされていて、柔らかく光る白い螭は、いまにも天翔んとするかのように力強くのびやかに身を躍らす。
「みごとな……、なんとみごとな彫り物だろう」
 三明は剣格に顔を近づけた。
 
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  剣首(剣墩)は剣柄の末端の装飾また、剣頭ともいう。漢の剣首は目釘と尾鉚(びりゅう)の二種類の  方式に分けられる。尾鉚とはねじ式のこと。
 剣格は剣を抜いたときに指を傷つけぬようにかませておく帯状のもの。漢剣では実戦用は銅。
 剣璏(けんてい)は剣のつかがしらの飾り。
 剣珌(けんひつ)とは剣鞘の末端の装飾物。
 図は百度百科『漢剣』より
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                剣璏(けんてい) 百度百科『漢剣』より
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撃剣図『河南省鄭州漢代画像石』
   左の人物は右手に鈎鑲(こうじょう)という両頭に鈎(かぎ)ある、引き寄せたり押しやったりすること   ができる兵器をもつ。左手に長剣をもち間合いを計りながら突く。右の人物はひざまずいて攻撃をか   わしている。
   百度百科より

 「まことに王侯貴人の腰間を飾るにふさわしい剣だ。ここに漢朝の輝きがある。雒陽の輝きです。錦の衣をまとうた貴人が美々しい剣を帯びて都大路を行き交った。都は滅んだのにその形見のような剣に会おうとは……世の移ろいは儚い……」
 三明は目をしばたいた。
 雒陽(らくよう)が恋しい。無性に雒陽が恋しかった。李の親方の妓楼があった路地も、路地に咲く偽りの恋の花も灰の下で眠る。恋のさや当て、歌妓の恋歌、むせび泣く琴の音、あの雒陽は死んだ。漢も死んだ。なんと俺は「漢が死んだ」と思ってしまった。三明は腕を組み
考え込まざるを得ない。
「兄さん」
 蒼い顔をした三娘が庭先に駆け込んできた。
「うん?」
 三明は我に返った。
「張娘がいない」
「なに、張娘が」
 三明は三娘を追って駆けだした。
 張娘の護衛役の大男と三明が鉢合わせた。
「やい、図体のでけぇの。張娘を護るのがおまえの役目だろ? なぜ、張娘から目を離した」
「図体のでけぇのとはなんだ、俺の名は馬だ。お嬢様は着替えをなさるからと部屋に籠もられた。それっきり姿を消してしまった」
「心当たりは?」
「間抜けじゃあるめぇ。あったらとっくに捜してるさ」
 馬は口をとがらせる。
「馬とやらよ。仲間に言って街道と船着き場を手分けして捜せ」
 返事はしなかったが馬は全速力ですっ飛んでいった。
「兄さん、黄龍が」
 三娘の指さすほうに黄龍が現れた。黄龍は跳ぶように走ってくる。
「何か銜(くわ)えている。きらきら光っているわ」
 三娘が叫んだ。なるほど黄龍はきらきら光る何かを銜えていた。三娘は黄龍に駆け寄った。
「まあ、簪(かんざし)じゃないの」
  黄龍の口から簪を抜き取ると三娘は舌打ちした。
「これ、張娘の簪よ」
「なんだと。簪を落とすとはただごとならぬ」
黄龍、どこで見つけたの? 案内して」
 三娘の言葉に黄龍は走った。三明は道士に一礼すると黄龍を追った。
 宿駅を出て一里ばかり行く張娘の許嫁だった段の若君にであった。黄龍は若君にむかって吠えた。
「こいつの仕業か。なるほど」
 三明は段の若君をにらみ付けた。
「張娘をどこへやった」
 三娘が剣を抜き放つと剣先を喉もとに突きつけた。
「ふん。女の剣など怖くはない」
 ひょいと身をかわして段がせせら笑う。
「その笑い、泣きにかえてやろうじゃないか」
 突きだした段の剣を空に跳んで三娘はかわす。
 跳んだ三娘が地に降り立った瞬間、段は顔を歪めて右肩を押さえた。押さえた手が血に染まった。
「やりやがったなこの鬼娘!」
 そういうのがやっとである、段はどさっと地に崩れた。
畑の向こうから段の下僕がわめきながら走ってきた。
「だれか、助けてくれっ。くそ狗をぶっ殺してくれっ」
 気の毒なことに、下僕の尻に黄龍が食いついているではないか。
「畑の方に小さな小屋が」
「兄さん、行ってみましょう」
 三娘にいわれるまでもなく、三明は駆けだしていた。
 小屋の中を覗くと、藁の下からにゅつと白い足が見えた。三明は悪い予感に打ちひしがれた。
「兄さん、見ないで」
「ああ」
 三明はそっぽをむいた。奴の止めを刺しておくべきだったと思うと、今すぐにも引き返したくなる。
「青(せい)ちゃん、青ちゃん」
 三娘は藁をかきわけて張娘の頬をぴたぴた叩く。張娘の目尻を一筋の涙が走った。藁の中から上半身を引きずりだすと、けぶるような白い裸体が現れた。やはり、着替えの最中にさらわれたらしい。三娘はあわてて張娘の体を藁で覆った。
「何かされたかい?」
 三娘が張娘の耳元で囁く。
「……」
「言いたくなきゃ言わないで。私は青ちゃんの秘密、守るよ」
 三娘が囁いた。張娘はこくんと頷く。
「部屋に入ったとたんに霧を吹きかけられた、痺れ薬の霧を」
「だろうね。青ちゃんほどの使い手だ、普通の手段じゃかなわない。仇は討ってやったよ、あいつの右肩をざっくり斬ってやった。私は部屋に戻って青ちゃんの服をとってくるけど、止めを刺しておこうか? それともあとで青ちゃんが刺すかい?」
「止めは私が刺す」
 張娘はきっぱりと言い切った。
「わかったよ。ここは兄さんにまかせた」
「三明! 嫌。三明にだけは知られたくない」
「なぜ?」
 三娘は眉を跳ね上げた。
「なぜ……か、わからぬ」
 張娘は顔を赤らめ両手で顔を覆った。三娘の胸を痛みが駆け抜けた。
「すき……な……」
「言わないで」
 張娘が制した。
 三娘は小屋を後にした。この敗北感は一体何だろう。私の兄さん、私だけの兄さんが……。走りながら涙があふれてとまらない。

続く(二、三日中に)