丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百九回

    丁夫人の嘆き(曹操の後庭)第一百九回
          
               《あらすじ》

 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
 雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
 曹操は成皋関を目指して進んだが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗した。この戦で、曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げる。
 曹操もまた股を負傷し馬を失った。危ういところを曹洪に助けられた曹操は、彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。

 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長し婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道であるが、雒陽、長安董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
 安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘から許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、それはなんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
 張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
 この堂守は三明たちが仕える曹操や劉荊州などをこの目でみようと、三明たちを追ってきた。へんな男で年寄りかと思えば意外にも若やいだ表情をみせる。
 斗姆(とぼ)宮の堂守だった道士を三明たちは斗姆道士と呼んだが、この道士に助けられることが多い。一方、張娘はかっての婚約者にさらわれ、汚されてしまう。そして三娘に意中の人を悟られてしまった。

                          第一百九回
   小屋の外は夏の光が踊り、蝉は命の歌を歌う。この世は燃えるような命の輝きに満ちているのに、張娘は暗澹たる思いに駆られ死にたいと思うのだ。
「私の輝きは失せた……」
 そう思うと涙がとめどもなく流れた。しかも、一番知られたくない三明が小屋の外にいる。
 「青ちゃん」
 張娘に背を向けたまま三明が声をかけた。
「来るな! 来るでない」
 張娘は叫ぶ。
「ごめんよ、青ちゃん。守ってやれなくてごめん」
「……」
「泣くな」
「……」
「頼むから泣くな」
「……」
「泣かれると胸が苦しくなる」
「泣きとうない。けれど涙が勝手にあふれてくる」
 張娘は泣きくずれた。
 三明は草をちぎると草笛を作った。そして三明は、昔そうしたようにひたすらに草笛を吹いた。故郷の春の祭りの歌を思い出して。
 
 春が来て川の氷
 流れてとけたら
 岸の蕙(かおりぐさ)     
 白い花をつけるよ
 手に手をとって
  摘みにいきましょ
                                            
  春が来ると岸辺には蘭の花が咲きにおう。皆で揃って川岸に集まり蘭の花を摘んで春の到来を喜んだものだ。
 「……あの岸の蘭は」
 張娘が顔をあげた。
「今年も咲いて散っただろう」
 万里のかなたの故郷はどの方角だろう、三明は空を仰いだ。輝く雲の峰がまぶしい。
「あの岸で花を摘みたい」
「ああ、摘みに行こう。連れて行ってやるよ」
「きっとよ」
「ああ、きっとだ」
 三明は振り返った。張娘はあわてて両手で胸を覆う。三明は視線を逸らす。
「ごめん。これ、着ろよ」
 三明は上着を脱いで張娘に投げた。

 斗姆道士は人待ち顔で宿のまえをうろついた。三明たちのことが気がかりで待ちかまえていたのだ。三娘をみつけると駆け寄ってきた。
「見つかったか?」
「ええ。心配かけましたが大丈夫」
「よかった、よかった」
「道士よ。痺(しび)れ薬の霧を起こす術者をご存知か?」
「痺れ薬の霧か? 蝦蟇男だ、ふくべに蝦蟇の毒を溶いた水を入れて霧を吹く。劉益州の手下だ」
「劉益州か」
 三娘は唇をかんだ。
「蝦蟇男があらわれよったか?」
 道士の言葉に三娘はこくんと頷く。
「身をかがめて風上に回るのだ。奴は丸薬を飲んで毒から身を守りよるが、奴とて大量に毒の霧を浴びればやはり手足が痺れる」
「つまり、速攻で風上に回り、匕首で胸を刺せばよいのだね」
「さよう。息を止めて風上にまわれ。背後から一撃もよい。空を読め。時ならぬ霧には用心すせよ。霧の中程に石を投げてみよ。霧がしばし薄れると蝦蟇男だ。毒消しならわしも持っておる」
 はっとしたように道士は顔色を変えた。
「朱殿は大丈夫か?」
 道士は朱の部屋へと走った。三娘が道士を追う。黄龍が背をうねらせて走った。そして跳んだ。守宮(やもり)のように朱の部屋の壁に張り付いている男がいるではないか?
「喰らえ」
 道士が跳ぶ。あっと振り返った曲者は、どことなく猿面の刺客と面立ちが似ていた。道士はすかさず曲者の眉間を蹴った。曲者は地べたに崩れ落ちた。
「生かしておくわけにはいかぬが、さりとてこの場で殺すわけにもいかんのう」
 道士は男の眉間と腎の臓、臍(へそ)の下を指で突いた。
丹田を潰した……この男、長くはあるまい」
 鮮やかな手際である、三娘は目を丸くした。
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 漢代の剣 鉄製 銅剣にくらべ幅が狭くなっている。写真は百度百科より

 ぐずぐすしていられなかった。三明たちは用心して二艘の船に分乗して巴陵に発った。
 いつも三明のそばにいた三娘は、ここのところ斗姆道士の側にいることが多い。だから船も三明とは別の船だった。だれもが三娘に気を遣って気がつかぬふりを決め込んでいた。
「未然の事が見えるのかい?」
 水面に目を向けたまま三娘が道士に尋ねた。
 「わしはそっちの方は疎いがときどき閃くことがある」
「閃くのか。知りたい、天の機密を」
「ま、そう向きになるな。ふっとわしの頭の中を、年老いた三娘が壮麗な城門にもたれている姿が過ぎった。おや、この剣、そなたの腰間におさまっていたぞ」
 道士が首をひねる。
「わたしがその宝剣を腰におびているのか?」
「もしもこの剣が三娘のものになったら……。そのときわしはこの世の者ではないということか。尸解仙(しかいせん)になればよいが」
「道士が尸解仙になるのはめでたいことだが、なぜ宝剣が私のものになるのだ」
「さあ、天の機密ははかりしれんからのう。ま、この剣の由来を話しておこう」
「道士よ。荊州でこの宝剣を州牧に献上すればよかろう。寺の一つくらいは建ててくれるやもしれぬ」
「うむ、それはよいことじゃ。ところで漢朝の名剣の一つに『中興』というのがある。霊帝建寧三年(170年)に鍛造させたものだぞ。同時に四剣を鍛造させておるが、銘はみな『中興』という。どういうわけか、そのうちの一剣の行方がわからなくなってしもうた。この剣の銘も『中興』じゃよ」
「……なんと、そりゃ凄腕の梁上の君子の仕業だ」
 三娘は目を丸くした。
 もしも、忍び込めと言われたらどうする? その凄腕の盗人、一夜の働きではあるまい。きっと内通する者がいて、根気よく宝物庫の屋根に穴を開けたものとみえる。
「はっはっはっは。庫(くら)の封印はもとのままだったらしい。それゆえに発覚が遅れた。ここまでみごとだと梁上の君子とはいえ、感嘆するばかりだ」
 道士は大笑して続けた。
太白山で行き倒れを介抱した。その男は死ぬときに礼だと言ってこの剣をくれた。拵(こしら)えのみごとなこと、ただならぬ剣のたたずまいにわしは震えてしもうた。銘を調べると『中興』だった」
「中興とはめでたい名、誰かに盗まれる前に州牧に献上することだわ。玉を抱いて罪ありというではありませんか?」
 三娘の言葉に道士は頷いた。
 

続く。