聖なる二つの燈(ともしび)
聖なる二つの燈(ともしび)
注: 一六軍
長安城の南四十里に霊母谷があるが、これはまた炭谷とも呼ばれている。谷を入ること五里に恵炬寺があった。寺の西南の澗(たにがわ)を渡り、川沿いに崖の側を行くこと十八里で峰にいきつく。この峰を霊応台という。この台の上に塔を置(た)て、塔のなかに観世音菩薩の鉄像がある。この像は、六軍の散将である安太清が作らせて安置したものである。
人々は観世音菩薩がかつてこの台に姿を現したと語り伝えていて、塔にある観音の鉄像の体から光がさすとも言われていた。それゆえに、長安の市民や世俗の人は先を争って参拝した。帰り際にみな米や麯(こうじ)、油、醤(ひしおみそ)を背負いこれを寄進してゆくので、台下やその付近の蘭若(らんにゃ。寺のこと)四十余所は、僧も寺の稚児も、衣服や飲食にはゆとりがあった。
いつも七月十五日の大斎日には千人ちかい士女が、少ない時でも数百人をくだらない人たちが供物をもたらして台上で同宿し、観世音菩薩をうやまい経を唱えて光の出現を求めた。そして人々はいう。「いつも聖なる燈(ともしび)が出現するのをみたが、その燈はあるときは山の半ばに現れたり、あるときは平地に現れたりで、出現場所の高低はきまっていない」と。
大暦十四年(779年)四月八日の夜、大勢の人々が声を合わせて経を唱えて礼拝した。台に近い西南の方角に二つの聖なる燈(ともしび)が現れた。衆人のなかに一六軍の精悍な兵士がいたが、感極まったのかついにみずからうち倒れ、「観世音菩薩」と叫んだ。そして一歩一歩と聖なる燈(ともしび)に向かって歩みよった。忽然と現れた虎に引きずりさらわれてしまった。そこで人々は、あの燈は虎の目の光だと悟ったわけである。
太平広記 妖妄二 双聖燈 Chinese Text Projectより 拙訳
注: 一六軍
唐の軍制を調べたのですが一六軍とは不明です。
これが十六軍なら意味が通じます。
十六軍は京師防衛にあたる南衙に属する軍隊のことです。南衙は十六軍、同じく京師をまもる北衙は十軍。
注:原文送供を「供物をもたらして」と訳しましたが、これも辞書には出てこない。図書館で「仏教用語辞典」でも当たってみようと、出かけましたが、見当たりません。
中国語版ではさかんに「送供」という言葉が出てきますが、それはどうやら「僧院に供給される食料」という意味らしくとれました。
唐代の仏教:観音信仰が頂点に達したようで、そのもとになった経は法華経だそうです。
恵炬寺の所在地
長安城城南のいわゆる南山と呼ばれた「終南山」にあったそうで、神禾原(しんかげん)にあったそうです。元代にはすでに廃れて著しく荒廃して見る影もなかった記されています。
唐代の一里:559.8m
写真はグーグルマップより