ものぐさの残飯あさり

         ものぐさの残飯あさり

   懶残(らいざん)という者は、唐の天寶初め、衡嶽寺(こうがくじ)の執役僧であった。


注*天寶(てんぽう。天宝。742年~756)
 唐の玄宗の年号。この天寶年間に安史の乱が起こった


注*衡嶽寺(こうがくじ)
 衡嶽とは中国五大名山のひとつである南岳衡山のことで、衡山系の紫雲峰に衡嶽寺があった。
南朝梁の天監二年(503)に建立。本の名は善果寺である。陳は改めて大明寺とした。隋の大業(605~618)中、またあらためて、街岳寺とし、あわせて詔を下して舎利塔を建立させた。その後の荒廃は記録から探ることはできない。明の嘉靖甲辰年(1544) 、その故址に甘泉書院を建てた。故址は今の岳雲中学内に残っている。
 
注*執役(しつえき)
 貴人の左右に侍して事に任ずる者。執事。
 
 懶残は主の膳を下げると、その残り物を余すところなく食べた。性根が懶(ものぐさ)で、もっぱら残り物を平らげるので、『懶残(らいざん)』と号したものだ。
 この二十年というもの、昼はもっぱら寺の器物を作り、夜は牛の群れの下で休んだが、一度たりとも嫌な顔をしたことがない。時に、鄴侯(ぎょうこう)の李泌が寺に逗留していて、読書にいそしんでいた。
 李公は懶残の様子を観察した。そして「凡庸の者でない」と悟った。懶残の夜半の梵唱を聞くと山林に響き通るのである。李公は楽の音に造詣が深く、その喜びや憂いをよく判別することができた。

注*梵唱(ぼんしょう。梵唄)
 仏法のうたいもの。また、読経をいう。
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衡山 写真はグーグルマップより
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湖南省 衡陽市  衡山  グーグルマップより。
 李公はいう。
「懶残の読経の音は、悲しみのなかにも華やかさがあるぞ。そして後になるほど喜悦がみなぎる。あの人はきっと、罪を犯して天界から地上に流された人だ! 時満ちてまさに天上に帰ろうとしている!」
 李公は、夜半を見計うとひそかに懶残のもとを訪ねた。是が非でも目通りしたくて、門に扉代わりに下げた席(むしろ)のまえで、名札を出して面会を求め、丁寧にお辞儀をした。懶残は大声で罵り、空を仰ぐと唾を吐いて言った。
 「まさにわしに賊(あだ)をなさんとするのか」
 李公はいよいよ敬い謹み、ただただ胸の前で両腕を組んで上体を折り曲げる拝礼を繰り返した。
 懶残は、薪代わりに燃やしていた牛糞の火を掘って平らにならして芋を取り出すと、これを啗()らいはじめた。しばらくすると懶残は言った。
「地べたに席(むしろ)しいてよいぞ」
 李公がそうして席に座ると、啗いかけの芋を半分に割って李公にさしだした。李公はその芋をうやうやしく捧げながら受け取ると、ぺろりと平らげて礼を言う。すると懶残は言った。
「慎んで他言してはならぬぞ。十年たてば宰相の地位を受け取ることになろう」
 李公はまた拝礼して退いた。
 
 李公が衡嶽寺に滞在すること一月に及んだ時、刺史が衡嶽を祭ることになった。それで住民を駆り出して山道を整備させたが、この夫役はたいそう厳しいものだった。突然に夜半に強風と雷雨に見舞われ、衡嶽の一峰が崩れ落ちてしまって、その山ぞいの石段が大きな石に囲まれるように塞がってしまった。
 そこで十頭の牛を繋いで石を挽かせてみたが、びくともしない。また、数百人を使い、太鼓を叩いて囃し立てながら石を推してみた。いずれも力ばかり尽きたが、びくともうごかない。あらたな別の途(みち)などなかったので、どうしてもこれを修理しなければならない。
 懶残が進み出て言った。
「人力などかりずともよい。わたしが試しにこれを取り除いてみよう」
 すると衆人はみな大笑いし、彼を狂人だと思った。懶残はいった。
「どうしてそんなに笑うのか? 試して見ないとわからないではないか
 寺僧はそこで笑いながらもやってみさせることにした。懶残は石の上にのぼると、とうとう石を履()んで動かした。突然に石はころがりまわって石段を下った。その音ときたら落雷のようだった。かくて山路は開かれたのである。
 感嘆した衆僧はぐるりと懶残をとり囲んで拝んだ。この郡ではみな懶残を至聖と呼んだ。刺史が懶残を捧げまつること神に仕えるようだった。
 懶残は悄然として、ここから姿を消したいと願った。その頃、寺の外の虎豹は忽然と群れをなして毎日、人を殺傷した。だが、それを禁ずる手立てがない。懶残は言った。
「わたしに箠(むち)をください。あなたがたのためにことごとく駆除してあげましょう」
 衆僧はみな言った。
「大石ですら推すことができたのだ。虎豹などまさにたやすく制することができましよう」
 ついに懶残に長い木の笞(むち)を与えた。みなは懶残の後についていき、これを見物することになった。
 寺門を出ていくらもたたないうちに、一頭の虎があらわれた。虎は懶残を銜(くわ)えていずこともなく立ち去った。
 懶残が去ってのち、虎豹の害はぴたりと後を絶った。のち、李公は果たして十年にして相になった。
 
太平広記 異僧十  懶残 Chinese Text Projectより 拙訳

今回も意訳がまざっています。
旧唐書の列伝第八十」に李泌の伝記がありますが、なかなか気骨というか「気難しい」というか、まわりと調和がとれない人だったようで、左遷、政敵の讒言にあうなどで山にこもっています。

梵唱も面白いのが見つかりましたが、何かの機会に紹介しようとおもいます。
と、いうのもはりつけたい場所にうまくおさまらないからで、少し勉強してからです。