蠮蠛国(えつべつこく)への使者

        蠮蠛国(えつべつこく)への使者
 
 唐の寧王の傅(もりやく)袁嘉祚は、人となり正直で阿(おもね)らず、よく人臣としての大節を行い、主君に直言して主君を悟らせるためには死も厭わなかった。のちに塩州刺史になった。彼の為政は清廉潔白で天下第一の栄誉を博した。時に岑羲、蕭至忠が宰相になり、嘉祚に開州刺史を授けた。
 

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上の地図のオレンジ色の線で囲ったところが塩州。今の五原地方。岩塩が採れる豊かな地方である。
下の地図のオレンジ色の線で囲ったところが開州。今の重慶市をふくむ地である。が、当時として都から離れた小さな州の長官というのは左遷以外のなにものでもない。(中国歴史地図集 三聯書店有限公司より)

注*開州
 西魏が開州をおいた。北周では省き、隋朝の末年、萬州を置いたが唐朝武徳元年(618)、改めて開州とした。治所は盛山県(広徳後、名を開江県と改めた。すなわち、今の重慶市開県)。天宝元年(742)、改めて盛山郡とした。乾元元年(758)、また改めて開州とした。明朝洪武六年(1373)、降格して開県とした。
 
嘉祚はこれを恨み、しきりに左遷された悔しさを述べた。それを聞いて岑羲、蕭至忠の二人の宰相は大怒した。嘉祚を詬(はずか)しめて言う。
「愚か者。叱りつけて無理にでも発たせてやる」
嘉祚は恨み嘆きながら義井で馬に水を飲ませた。
 
注*義井(ぎせい)
 公費で設けた井戸。共同井戸
 
井戸に背を向けて座っている一人の男がいた。その男が水で手を濯(そそ)ぐのだがわざとか、水しぶきを飛び散らす。そのためにたびたび嘉祚の馬が驚き騒ぐ。嘉祚は怒った。この男を罵った。
「臭い下っ端兵士よ。なぜ、わたしの馬を驚かせてばかりするのか?」
その男は嘉祚をかえりみて言った。
「蠮蠛(えつべつ)国への使者の務めを目前にひかえ、未だ死に場所も知らない。どうして私を怒るのかね」
なんとも不可解な、それでいて意味深長な言葉であった。嘉祚はとっさにこの男を異能の持ち主だと思った。
 翌日、朝廷に参内すると果たして例の二人の宰相から召しだされた。昨日とは打って変わり、わざわざ嘉祚を愛想良く出迎えてくれるのである。
「公の治績はもとより高く評価されている。まさに公は朝命を銜()け、使者に充てよう。今、公をもって衛尉少卿とし、蠮蠛国へ往き聘(ほうもん)の答礼を行へ。よいかな」
 左遷よりももっと悪い。邪魔者は消せと遠い異国へ使いに出そうというのだ。
「みどもは不才にてござれば、大任を汚し、しいては大唐国の名を汚しましよう」
 嘉祚は不才を理由に辞退した。
 すると岑羲、蕭至忠の二人の宰相は冷ややかに言った。
「命令の文書はすでに下りましたぞ」
 嘉祚はたいそう恐れた。
 帰路、義井を通った。するとまた、昨日の馬を驚かせた男に遇った。男は嘉祚にむかって言った。
「宰相は、そのほうを遠国へ使いに出そうとしているらしいが信(まこと)か?」
 その言葉を聞くなり、嘉祚は馬から降りてこの男に丁寧なお辞儀をした。この異能の男は続けた。
「公よ、憂うることはない。ここに止まって行くな。二人の宰相の頭はすでに槍の刃に懸けられておる。もはや公を怒らせることもできぬ」
 そういうと男はいずくにか姿を消した。


 一日おいて、あの二人の宰相は皆誅(ころ)されてしまい、果たして異人の言葉通りになった。
 蠮蠛国とは大秦国の西数千里にあって、古より未だかつて国交を通じたことはなかった。この二宰相が死んだので、嘉祚ついに大唐を去らずに済んだのである。
 
注*大秦国
  のち東ローマ帝国をさす
 
注*蠮蠛(えつべつ)
 どのような国か不明である。蠮とは「ぢがばち」のこと。蠛とは「ぬかが。かつおむし」のことである。
 
注*岑羲、蕭至忠ともに外面は忠義をよそおいながらも、時世に阿(おもね)ること甚だしかったという。太平公主におもねり、太平公主玄宗を廃位する謀反の企てに加担した。この企てが漏れ、玄宗皇帝に先手を打たれ誅滅されたのである。時に先天二年(713年)、七月のことである。

太平広記 異人二  袁嘉祚  Chinese Text Project より