少君の術
唐の李當が興元を鎮めていたときのことである。
褒城県(ほうじょうけん)の處士、陳休復という者は陳七子と号していたが、博徒と慣れしたしみ、品行が常の者とは思えない。
注*處士(しょし)
士の未だ仕えないものをいう。浪人。後世、偉人を優遇する号に用いる。臣をもって遇せざる意にとる。
注*興元
唐の山南西道、梁州が興元府に相応。
治所は、今の陝西省漢中市である。
注*褒城も治所は漢中市
李はその怪しげなそらごとを理由に、これを械(かせ)をはめ牢にぶちこんだ。すると、異なことに市井に休復がもう一人現れた。
間もなく休復は牢獄で殞(し)んでしまった。にわかにその屍が腐敗しはじめたので、係りの役人がこれを収容して埋葬した。
その後、褒城で休復が寝ころんでいるのをみかけた。李は驚くと同時に不思議におもい、敢えてまた休復のことをうんぬんすることはなかった。
ある朝、李の愛娘が突然に亡くなった。李の妻は娘を追悼するあまり疾(やまい)に見舞われたが、これをよく療(なお)す者はいなかった。
幕客が李に教えた。
「陳處士は真に道を会得した者です。だからきっと少君の術を知っているにちがいない。祈祷してみてはいかがかな」
李は幕客の意見をもっともだと思い、陳を丁重に敬い招いた。
陳は言う。
「これしきのこと、たやすいことだ」
注*少君の術
亡魂を招く術のこと。少君の姓は李。
初夜、帷裳(いしょう)をかけ、あかりをつけると、門の絵を一つ描いた。そして簾(すだれ)を下すと夫人をその中にいれ、じっと息をころして隠れているように命じた。
漏刻で亥の二刻から子の二刻までの称。
亥の時が今の午後九時頃。子の時、今の夜十一時から午前一時まで。以上諸橋轍次の大漢和辭典より
夕刻から夜半にかけてをいう。
注*帷裳(いしょう)
縫い目のない裳。出仕または祭祀のときに用いる。
夜中にさしかかると、亡くなった娘が絵に描いた門から現れ、堂の中に入ってきた。
夫人のほうへと歩いてくるのだが、一歩一歩とますます近づいてくる。夫人はもう、胸がいっぱいになって声を失い、陳處士のいましめを破って哭泣してしまった。とたんに亡魂はふっと消えてしまった。