巫(かんなぎ)の罪

    巫(かんなぎ)の罪


 巴丘県に巫(かんなぎ)の師舒禮という者がいた。
 晋の永昌元年(322)に病死して土地神に連れられて太山まで送られることになった。世間ではいつも巫師のことを道人と呼んでいた。初めに冥土の役人たちの寺の前を通った。
「ここはなんというところですか?」
 土地神は門番に訪ねた。
「道人の舎(いえ)です」
 門番は答える。
「舒禮は道人だった」
 土地神は言った。そこで門番に舒禮を引き渡した。舒禮が門をはいると千百間はある大きな建物があり、みな簾(すだれ)をたらして榻(とう)がおいてあった。
注*太山
   泰山に同じ。五岳の一つ。山東省泰安市 泰山の東嶽をいう。
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泰山の山頂 写真はグーグルマップより。
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泰山の東嶽 写真はグーグルマップより

 注*巴丘県(はきゅうけん)
   今の湖北省岳陽市。洞庭湖に面している。
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    家具工房アウゲ家具さんの商品案内より。これは椅子タイプ。長椅子タイプもある。
注*榻
 こしかけ。ねだい。牀(しょう)の細長く低いもの。
 
男女は居場所が異なっていて、念仏を唱える者もおれば、仏の功徳を唄う者もいた。飲食にはなんら制限がなく自由であり、その快楽は言い表せない。


舒禮の名前はすでに太山に送られていた。名簿は届いているのに本人は一向に現れない。冥府の役人はじれた。
一方、舒禮は冥界の道人舎で楽しく過ごしていた。そこへ突然、手が八本で四つ眼、金の杵を提げた者が一人現れて、舒禮を追った。怖くて舒禮は道人舎を走り出た。すると、神がすでに門外で待ち受けていて、とうとう舒禮を捕まえて太山に送っていった。
「卿(きみ)は生前どのような行いをしてきたのかね?」
冥府の長官である、太山府君が舒禮に問うた。
「三万六千の神々に事(つか)え、人のために祭祀をおこなってきました」
 舒禮が答える。
「汝は神に佞(へつら)い殺生をした。その罪はまさに重い」
 府君は役人に舒禮をひきわたすと牽いてゆかせた。

 連れていかれたところで舒禮は、頭は牛で体は人である一つの物を見た。鉄の叉(さすまた)をもち、舒禮をとらえて真っ赤に焼けた鉄の牀の上に投げ出す。体が焼けただれ、苦痛のあまり死にたいと思ったが、いまさら死ぬことはできない。そこで日を重ね宿ったが、地獄の責め苦を極めた。


府君が冥界の帳簿をつかさどる者に問うた。すると舒禮の寿命はまだ尽きていないというではないか。舒禮を放免して戻らせることになった。
「また殺生をして淫祀を祀ってはならぬぞ」
府君は舒禮を戒めて言った。 
 舒禮は生き返ったが再び巫師にはならなかった。
 
注*巫(かんなぎ)は祀りのときに鶏や牛、豚などを殺して祀るので自然と殺生を重ねたのだろう。だから、すっぱりと巫を廃業したのである。
 淫祀とは官製ではない民間信仰をさす。


太平広記 巫 師舒禮 Chinese Text Projectより  拙訳