のっぺらぼう

          のっぺらぼう

 南康県の営民、區敬之は宋の元嘉元年(424年)、息子とともに舫(ふね)にのり、県から流れをさかのぼっていったが、小さな渓(たに)に深くはいりこんでしまった。そこはまるで地の果てのように遠く、この上なく険しくて、人跡未踏の地のようである。夕べに岸にあがり、舎(いえ)の中にとどまったが敬之は、病にかかりにわかに死んでしまった。その子は火を燃やして尸(なきがら)を守った。突然、遠くで哭声が聞こえ、「舅(おじ)さん」と呼んだ。息子は驚きわが耳を疑った。ほんのわずかな間に哭()いた者は息子のそばまできた。人のようで背が高い。ざんばら頭で髪は足まで伸ばしていた。けれども髪の大部分が顔を覆い隠していて七竅(しちきょう)がみえない。そして息子の姓名を呼んで、息子を痛み、慰めるのだった。


注*営民
  営は陣屋とか軍門の意味があるが、営田となれば屯田の意味もあって區氏が、軍人なのか屯田の民か不明である。
  
注*七竅(しちきょう)
  人の顔にある七つの穴。耳、目、鼻、口。


注*南康県  
    江西省南部の南康市ふきん。
 
注*唁(げん)
  「痛み慰める」の原文は「慰唁」となっている。
  唁は「とむらふ」という意味で、国を失った人を訪れて痛み慰めることである。
  死者をとむらうことを弔というのに対し、悲しむべきことに遭遇した者(生者)を訪れて痛み慰めることを唁(げん)という。
 
息子はおそれた。ついに薪を集めて火を燃やした。
「慰めに来たのだ。どうしてそんなに怖がるのか」
その物がいう。
 
注*物
 人の場合は者だが、相手が鬼神などの場合、物を使う。
 
 息子は薪をどんどん燃やして火勢を強めた。この物は尸の頭のあたりに座って哭()いていた。息子が火の灯りでこの物の様子をうかがっていると、この物は、尸(なきがら)の顔に自分の顔を覆いかぶせた。すると尸の顔は、たちまち面皮が裂けて肉がそぎ取られ骨が露わとなってしまった。息子は懼れ、これを撃とうとしたが武器がない。あれよあれよと言う間に、父親の尸は、白骨が連なりあらわれ、皮肉はことごとく尽きてしまった。
 この物がいかなる鬼神かついにわからなかった。

太平広記 鬼九 區敬之  Chinese Text Projectより 拙訳