丁夫人の嘆き(曹操の後庭)第一百十回

     丁夫人の嘆き(曹操の後庭)第一百十回
《あらすじ》

 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
 雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
 曹操は成皋関を目指して進んだが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗した。この戦で、曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げる。
 曹操もまた股を負傷し馬を失った。危ういところを曹洪に助けられた曹操は、彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。

 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長し婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道であるが、雒陽、長安董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
 安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘から許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、それはなんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
 張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
 この堂守は三明たちが仕える曹操や劉荊州などをこの目でみようと、三明たちを追ってきた。へんな男で年寄りかと思えば意外にも若やいだ表情をみせる。
 斗姆(とぼ)宮の堂守だった道士を三明たちは斗姆道士と呼んだが、この道士に助けられることが多い。一方、張娘はかっての婚約者にさらわれ、汚されてしまう。そして三娘に意中の人を悟られてしまった。
 そして彼らは一行は巴陵(現、重慶特別市)から江水(長江)を下り、荊州へ向けて出発する。

                  第一百十回  


「実戦となれば重くはございませぬか?」
 三娘が問う。張娘のせいで心がひりひり痛んでならない。三明と張娘はいつか結ばれるのだろうか? 三娘は心をどこかへ飛ばせながら空しく口ばかり動かしていた。
「重い。しかもみごとな細工が欠けぬか気になる。戦いとなれば銅の格がよい」
「それで夢幻道士は背にも剣を帯びていなさったのか?しかも、剣の素性を隠すために筵(むしろ)でぐるぐる巻になさって」
「惚れ込んでしまったのじゃわい、この玉剣に。じゃが、古人の戒めの言葉も忘れてはいないぞ」
 三娘の心中などすっかり見通していたらしい。なんだか道士は楽しそうである。
「戒めの言葉?」
「知らないのか? 有名な話だ」
「私は卑しい無学者ゆえ、書をたしなみません」
 三娘は顔を赤らめた。
「そのうち帛に書いて渡そう。帛書をみたら夢幻道士のことを思い出してくれ」
  道士はそう言ってにっと笑った。
 お陰で三娘は漢の宝剣を諳んじる事が出来る。
 船は山峡のまがりくねった川面をすべるように下っていく。やがて巴陵(重慶市)に着くだろう。巴陵に着いたらまた、三明や張娘と顔をあわせることになる。三娘は嘆息した。
  万が一のことを考えて、巴陵から荊州へは二艘の船に分乗することにした。なるほど、中洲の上で助けを待つ難破船を幾度となく、みかけた。
 荊州へと船は矢のように水上を滑る。川風が心地よかった。
「これ、三娘よ」
 道士の声に三娘はわれに返った。
  両岸の山水は深山幽谷のそれで、三娘の目はまだ幽谷の色を留めていた。
 「襃斜道(ほうやどう)を通ってみたかったと言っておったな?」
「はい」
「絵図だ」
 道士は絹に描いた三枚の絵図を広げた。
「曹公の命により、長安から漢中へ抜ける道を探りに来たのではなかったのか?」
 曹公の命ではなかったが、図星だ。三娘は目を丸くした。
「すぐに顔にでる。密偵にしては正直すぎるぞ」
 愉快そうに夢幻道士は笑った。
「これは陳倉古道、こちらは襃斜道(ほうやどう)、最後のこの絵図が子午道だ。いまじゃ董卓に制圧されていて、旅人も通わぬ」
 道士の言葉に三娘は目を輝かせ、こくんと頷く。
集中しなければならない事ができたお陰で三娘は、三明のことも張娘のことも前ほどは気にならなくなった。
 
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褒斜道(ほうやどう) 百度百科より
 
 荊州の豪族である朱家が設けた船着き場は、夫が留守の間、王月華姐さんが仕切っていた。三娘たちの乗った船は朱家の船着き場に横付けされた。新天地を求めて益州を横断した江賊の首領はまだもどっていないらしい。
 きりりっと男装した月華姐さんは、船から降りてきた金細工商の朱の顔をみると目を丸くした。それから大きな瞳をうるませ、まるで男のように胸の前で腕を組み、丁寧に頭を下げる。
「ご無事で……なにより……」
 あとはむせび泣きそうで声にはならない。勝ち気な月華は涙が大嫌いだ。
 少しやつれたが、みごとに回復した金細工商の朱が万感をこめて鷹揚に頷く。雒陽(らくよう)は絶世の美姫のような都だったな、と心の中で月華につぶやくと、朱は柄にもなく遠い目をした。
 朱によりそう美少女に月華が目をとめた。月華の目が物問いたげに朱にむけられた。
 「おお、張娘のことか? 恩ある人の忘れ形見だ、わしが守り役をつとめておる」
「恩ある人の忘れ形見……」
 はっとして月華は張娘に丁寧なお辞儀をした。

 感傷にふけっている暇はなかった。急いで三明に伝えねばならない。
  「大変だよ」
    月華が三明を船着き場のはずれに誘う。
「あんたが仕える曹操が襲われたよ」
「えっ」
「兵隊を借りに揚州に行ったそうだ。借りた揚州兵が曹操を襲って逃げたらしいよ」
「曹公はご無事か?」
「さあ。そこまではわからない。博労の李親方は大丈夫かしら?」
「……」
「東から来る旅人に探りをいれても、肝心なことはさっぱりわからない」
 月華姐さんは眉をひそめて嘆息した。

 「わしの見立てでは、きっとまたわしらは出会うにだろう」
  夢幻道士はそう言って驢馬にまたがった。背中に筵で巻いた尚方の剣を帯びていたから、まずは劉荊州食客になるつもりかもしれない。あの剣が世に現れたということは、とてもめでたいことでもあるのだ。
 金細工商の朱と張娘は月華姐さんの館(やかた) にしばらく逗留して、成都の郎党が来るのを待つことにした。
 三明たちは間道を急いだ。夜行も厭わなかった、黄龍がいたから、少しも苦にならない。一刻もはやくお頭のもとにはせ参じなければならない。
 
 続く


注*子午道については
私のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/flow six tamaehayashi/24405739html
で詳しく説明しています。