唐、大明宮の亡鬼

           唐、大明宮の亡鬼

唐の高宗が大明宮を営んだ。
宣政殿が始めてで完成したときのことである。夜ごと数十騎が宣政殿の左右を行き交うのだ。殿中の宿衛の者たちはみなこれを見たが、衣も馬も汚れ一つなくたいそうきよらかだった。このようなことが十余日続いた。高宗は術者の劉門奴に使いを走らせ、このわけを問わせた。
劉門奴は術を駆使してその騎馬に問うた。
「われは漢の楚王戊(ぼ)の太子である」
騎馬の主は、そう答えたのである。
漢書を案ずるに、楚王と七国謀反して漢兵これを誅(ころ)したとある。楚王の家は、宗は夷(ほろぼ)され、族は覆(くつが)えってしまった。遺嗣などいるはずがない」
 門奴が詰問した。
「王が兵を起こしたとき、われは長安にとどまっていた。天子はわれを寵愛なされ、そのまま置いて殺さずに宮中で養われた。のちに病で死に、ここに葬られが、天子はわれを憐れみ玉の魚一雙(いっそう)をおさめた。今、わが墓は正殿の東北角にある。史臣がこのことを抜け落としたもので、だから書に記載されなかったのだ」
「今、皇帝がここにいらっしゃる。汝はどうして敢えて庭中を騒がせるのか」
「ここはわれのもとの宅(やしき)であった。今すでに天子の宮中になり、動きやわが出遊はすこぶる制限され、たいそう面白くない。われを高くて平な景色のよい地に改葬することを乞う。誠に望むところである。慎んでわが玉魚を奪うことなかれ」
 注*一雙(いっそう)
   ふたつのこと。
 
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右上のオレンジの線で囲ったところが大明宮である。アジア歴史地図 平凡社より。


 門奴はこれを奏上した。帝は改葬させた。その墓所を発(あば)くと果たして古い墳(はか)が見つかった。棺(ひつぎ)はすでに朽ちてくさっていたが、かたわらに玉でできた魚が一雙あった。たいそう精巧な出来映えである。勅(みことのり)して棺を替え、苑外にこれを手厚く弔った。そしてあの玉の魚もまた棺とともに埋葬したのである。これよりのち、ついに怪異は止んだ。
 
太平広記 鬼十三 劉門奴 Chinese Text Project より   拙訳