白い項(うなじ)の烏
契丹(きったん)が都を犯した初め頃のことである。各地に群盗が蜂起し、戎(えびす)の人はこれをくるしんだ。
陳州にとある婦人がいた。賊の首領になり「白項烏(はくこうう)」、つまり白い項(うなじ)の烏(からす)と名乗っていた。
女盗賊の首領は年の頃、四十ほどで姿形は粗野で背が低く、髪は黄色く色は黒かった。
この賊が戎(えびす)の王のところに来て挨拶したが、そのとき、男子としての姓名を名乗った。衣や巾(づきん)も拝跪(はいき)の作法もみな男子のそのものだった。
戎の王は、「白項烏」と名乗る男装の女賊をよびよせて対面すると、錦の袍(うわぎ)と銀の帯、鞍をつけた馬を下賜して、懐化将軍の位を贈って、山東の諸盗を招き輯めさせた。そのため、賜与は異例の厚遇だったのである。
王の名乗りをあげていた趙延寿が「白項烏」を招いて問うた。すると彼女はみずから答えて言った。
「二つのゆみぶくろを左右にかけて、馬を馳せて左右に射ることならお手の物。日に二百里を疾駆して疲れ知らずです。矛を手にびゅんびゅん回して敵を薙ぎ払い、白兵戦では剣で敵を衝く、みなそれがしの得意とするところですぞ」
女賊配下の数千の男子はみな、手足のごとく服属していた。こんな女の夫とはどんな男だろう。あるものが問うた。
「夫はいるのか? いないのか?」
「前後あわせると数十人の夫を持った。少しでも逆らえばみな自らの手で斬り殺した」
女賊は平然と答えた。
これを聞いた者たちはなげき憤らずにはいられなかった。
「白項烏」は十日あまりで都下にあらわれたが、乗馬のまま宮殿に出入りしていた。また一人の男子が乗馬のまま女賊に従っていた。
これは妖怪ではなく人がなす妖である。北戎が中夏を乱し、婦人が雄を称するのはみな、陰が盛んなことの応(しるし)である。
婦人はのち兗州(えんしゅう。治所は現、山東省濟寧市東北)節度使の符彦卿に殺された。
注*陳州(現河南省周口市。唐の県治所所在地は周口市淮陽県)
注*拝跪(はいき。かがんでひざまずく。ひざまずいて拝礼する)