馮燕の侠気(おとこぎ)下

         馮燕の侠気(おとこぎ)下

《男たちの見方》

 馮燕は魏州出身の豪傑だ。爺さんも親父も名もない白民(へいみん)だ。だからといって燕という男の値打ちが下がるわけじゃない。そうじゃないか? 白民など人間扱いしない世の中、この世の中が腐っている。出世できるのはほんの一握りの名門だ、名門の出だけが人間かい? 日なたを歩けるのは名門だけと決まっている。 大唐の詩人が詩った。

長安男児(おのこ)あり、二十(はたち)にして心すでに朽ちたり……』と。あの言葉はおれたちの脳天を一撃したぜ。なにしろ、『心すでに朽ちたり』という奴がごろごろしているご時世だ。

 

 燕が撃毬や闘鶏にうつつを抜かしていたというが、あれは男たちを夢中にさせる遊戯だ。おれたちのように日向を歩けぬ白民(へいみん)は、だってそうだろ? 日なたの大道を鈴の音も高らかに駆け抜けるのは貴人たちで、白民は大道を歩いても、あんぐりと口をあけた奈落を見るばかり。何かに酔っていないと生きちゃいけねぇ世だ。

 魏は昔からの都会だ、要所といわれてきたからな。物も人も上等なのが集まる。魏の市で財を争って殴り合いをした奴がいたよ。醜いねぇ。世の不公平を正し、悪を成敗するのが侠(おとこ)のつとめ。不平をこぼす奴を、勢い余って殴り殺してしまったのは、いかにもまずい。まずいが、出来てしまったことは仕方がない。よくある話さ、だれでもこんな時は逃げる。侠気(おとこぎ)にはつきものの逃亡だよな。

燕は田舎に隠れた。が、捕吏の追求はいよいよ厳しく滑の地に逃れた。これもよくある話さ、とりたてて珍しくもねぇ。

滑州の長官、賈耽は宰相をつとめたお方だ、朝廷のおぼえもめでたく人望も厚いときた。よい国を選んだものだ。燕にも運が向いてきたわけだ。

 

撃毬と闘鶏は男の名刺がわり。これに詳しいと話ははやい。滑の軍中の若者たちと馴染みになるのに歳月なぞいらない。あざやかな手並みがものをいった。武術の鍛錬に撃毬はもってこいなのだ。素早い身のこなし、馬を縦横に駆使する手綱さばきがどんなに大事か、やったことのないものにはわかるまい。撃毬の腕が長官である賈耽の目にとまるのもごくごく当然の成り行だった。

馮燕は腕を見込まれて滑軍の兵士になった。食うことや寝る場所に困らなくなったというわけで、めでたいことだ。

燕の奴、休暇で街中をぶらついたとき、色っぽい奇麗な女と目が合った。女は戸口に立って、衣の袖をかざして馮燕をみた。きれいな顔が、鮮やかな衣の袖のせいでなおさら際立つ。そして、二人の視線がかみあう。

燕はいい男だ、撃毬で鍛えた体は引き締まっている。女の夫は滑軍の武将で張嬰というが、酒ばかり飲んで妻を殴るような男だ。当然、妻のほうでも嫌気がさすのだろう。女は目で誘った。

男なんてものは美人に弱い。流し目なんぞ使われちゃなおさらだ。人を使って女の気持を探ると女の家にしけこむ。血気盛んな年頃には、あたりまえのなりゆきだろうよ。

あるとき燕は、張嬰が仲間と酒盛りしているすきに、こっそりと嬰の妻と逢引した。部屋に鍵をかけてことに及んだが、その最中に嬰が帰宅した。女は何食わぬ顔で戸をあける。酔った嬰はよたよたと寝台にむかう。燕はとっさに寝台の足元に身をひそめた。女はぱっと衣を広げ、衣の裾にもぐりこめと合図した。身をかがめたまま、忍び足で燕は女の衣の裾にもぐりこんだ。そして隙をみて扉の陰に隠れた。はっと気がついた。巾(ずきん)がない! 巾を枕の下に忘れた。

張嬰はすでに寝台で高いびきだ。その枕の下に燕の巾があった。

嬰は護身のために日ごろから枕元に刀を置いていた。巾と刀はそんなに離れていなかった。

 燕は巾を指さして女を見た。

女は刀を取って燕にわたした。

燕は女をまじまじと見返す。女もまた光る眼で燕を見つめ返した。暗がりの中を白く冷たい光が動いた。燕は可愛い女の首を切り落としていた。

「許せ。おれは侠気(おとこぎ)で世を渡ってきた。姦婦を成敗するのは遊侠の務めだ」

急いで巾を拾いあげると燕は張の家を出た。

 

あくる朝、目をさました嬰はびっくりした。彼の刀が床に転がり、血だまりのなかに妻がたおれているではないか。

いつも妻を殴っていたので妻の骸(むくろ)を見た嬰は、「ああ、なんてことだ。とうとう殺ってしまったらしいぞ」と、血まみれの刀を呆然と見つめた。ああ、どうしたものか、やはり自首しようかと嬰は思い悩んだ。

 

「どうしたのかしらね。今朝はあの人、井戸に水汲みに来ないよ」

嬰の妻の姿を見かけないので、怪しんだ隣人たちが嬰の家にやってきた。嬰の様子が妙におかしい。問い詰めると嬰の妻の無残な姿があらわになった。

「とうとう殺ったのかい?」

「違う、違う。わしじゃない。目が覚めたら妻が死んでいた」

「死んでいた? 」

「自分で殺っておいて死んでいただって」

隣人たちは怒って嬰を縛りあげた。そして嬰の妻の親族に知らせに走った。

妻の親族がどっと押し寄せてきて張嬰をなじった。

「いつもうちの娘を妬んで罵ったり、殴ったりしていたよ。ありもしない浮気をでっちあげて殴るのだ。挙句の果てになんて惨い殺し方をしてくれたのさ」

哀れにも張嬰は、日ごろから妻を怒鳴ったり殴ったりしていたので、何を言っても信じてもらえなかった。

妻の親族たちは、嬰が倒れないようにしっかりと支えておいて、棒で百回以上も叩いた。おそらく嬰の皮肉は破れ、血まみれで息も絶え絶えだったに違いない。そのうえで嬰を役所に引き渡した。

 

あの男ならやりかねないと思われたらしく、誰一人として張嬰の弁明をするものはいない。嬰は牢獄に入れられ、ついに死刑の日を迎えた。警護の役人に取り囲まれて嬰は刑場に引き立てられていく。千人を超える見物人が刑場を取り囲んでひしめいた。その時だった。

「待ってくれ。無実の者を死なせてはいかん」と、叫びながら人垣をかきわけて進んで来る男がいた。

「殺したのはおれだ。おれが張の妻を盗み、そして殺した!」

なおも男が叫ぶ。警護の役人はその男を取り押さえた。

取り押さえてみると馮燕である。役人は燕を連れて州の長官である賈耽に見えた。燕は事の次第をありのまま話した。耽はこのありさまを上奏すると同時に、耽が務めていた義成軍節度使と滑州刺史の印を返上して馮燕の命乞いをした。皇帝(唐・徳宗)はこれを誼(よい)として、詔を下しておよそ滑城の死罪の者の罪をみな赦したのである。

 

≪女の立場≫

馮燕のことをまるで英雄扱いでございますが、もとはと言えば、魏の都会をうろついていた軽はずみなチンピラではございませんか?

口を開けば「やれ、侠気(おとこぎ)だの俺様は侠(おとこ)でござる」と、うるさいこと、うるさいこと。まともな生業(なりわい)など見向きもしないで、撃毬、闘鶏にうつつをぬかし、博打にあけくれていたのでごいましょうよ。何をして口に糊していたものやら……。

侠気を理由に人を殺し、捕吏の目をくらます為に他国へ逃亡したわけでしょ。どこが潔いのやら、笑止千万とはこのことではございませぬか?

遊侠の徒は姦婦姦夫をひっくくり、真っ二つに成敗するのが当たり前。夫の留守をよいことにその家で情事にふける。そこまで可愛い女ならこそこそしていないで、一緒に他国へ逃げてあげたらどうなの? いつも夫に様々な暴力を受けていたのでしょ。

(ずきん)を枕の下に忘れた。巾の近くに護身用の佩刀が置いてあった。巾をとっておくれと合図したら、女は巾のかわりに刀をとって渡した。女はこの苦境から救いだして欲しくてそうしたのでしょ。なのに、なのに燕にとって女のどれほどの価値だったの?

あのとき何を思って女を殺したの?

女性蔑視以外のなにものでもないわ。

それが女への愛の証だという男性もいらっしゃるけど、素直にはうけとれないのでございます。

世の中、馮燕を爽快で侠気のお手本のようにほめそやしておりますが、決してそう思えないのでございます。これもまた、男性中心の世の中が生んだ英雄でございましょうか?


ここからはやや、専門的なことになります。 苦手な方は読み飛ばしてくださいませ。


「唐馮燕者魏州豪人」を「唐の馮燕は魏州の豪(おとこだて)である」と訳したが、

通常はこのような書き方をした原文は、「唐の馮燕は魏州豪の人である」というふうに訳すべきである。

唐の行政単位の一つである州は、県を管轄しているため、○州△県と表記されるのが常である。だが、魏州豪県を旧唐書(くとうじょ)及び、新唐書で調べてみたが、魏州には豪県は存在しない。

 

≪注*魏州豪の人≫

新唐書 志第二十九 地理三

河北道

魏州、魏郡 大都督府

もと武陽郡、龍朔二年名を冀州と改める。咸亨三年また魏州と曰く。天宝元年郡名に改める。

県十四、貴郷元城館陶(とうとう)冠氏(しん)朝城昌楽、臨河洹水(えんすい)成安内黄宗城永済

河北道は河北採訪使(漢の刺史に相当)が管轄。治所は魏州。

王仲犖(おうちゅうらく)著作集「北周地理志下」中華書局

によれば

貴郷(今の河北省大名県東)

元城(今の河北省大名県東)

(北斉の魏県は今、河北省魏県東南)

楊守敬「隋書地理志考証」すなわち云う「今、元城県西やや南四十里、二者の説、異あるようにみえて誠は一致している。

館陶(今の河北省館陶県城關)

冠氏

朝城

昌楽(今、河南省南楽県西北)

臨河

洹水(今、河北省 邯鄲市魏県東南)

成安(今、

内黄

宗城

永済

 

 ≪ それなら『豪』とはなんだろうか?≫

  中国のサイトでも困惑しているのか、「魏の豪の人だ」と訳している者もおれば、魏州の豪傑と訳している者もいた。

 また、「馮燕伝」の別バージョンによれば馮燕は漁陽(今、河北省天津市薊県)の出身だと記される。漁陽は唐の河北道・薊州に属していて、現在の河北省大名県付近に治所をおいた魏州とはあまりにもかけ離れすぎているから、ますます混乱してしまう。

 

注*魏州の治所は今の河北省邯鄲市大名県付近




太平広記 豪侠三 馮燕  Chinese Text Project 原文