丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百十三回
丁夫人の嘆き(曹操の後庭)第一百十三回
《これまでのあらすじ》
雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるのが王道であるが、雒陽、長安は董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
張娘は許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、なんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
斗姆(とぼ)宮の堂守だった道士を三明たちは斗姆道士と呼んだが、この道士に助けられることが多い。一方、張娘はかっての婚約者にさらわれ、汚されてしまう。そして三娘に意中の人を悟られてしまった。
第一百十三回
「なに? そんなに劉荊州の評判は良いのか?」
曹操は目を丸くすると、ぐいと身をのりだした。その目は言外のなにかを探っていた。よい評判の陰には必ず不満に思う者たちの恨みの声が潜んでいるはずだ。
耳目の長をつとめる博労の李は曹孟徳の反応に内心、ほくそ笑んだ。食いついて来なすったぜ、殿様よ。そうこなくちゃ面白くねぇ。鉄壁の城も蟻の穴から崩れる。その蟻の穴が陰に潜む恨みだとしたら? 殿様のすぐれた兵法は蟻の穴を見逃さぬことでさぁ。さあ、目を天下に移しなせぇ。こうしている今も世の中は刻々と動いておりますぜ、関西の董卓だけが天下ではござせん。
孟徳は、劉表が荊州の統治に手こずると踏んでいたのだ。地方には地方独特のゆるぎない習慣があり、それが法律のように民を支配する。国法が統べるのはほんの上っ面だ、たとえてみれば国法は麦畑を渡っていく風のようなもので畑は畑、百年千年変らない。そこへ、国法を執り行う代表者の劉表が乗り込むのだ。漢朝の権威など地に落ちている。
「やはり八俊と称えられただけあって、凄腕でございますな。土地の豪族とうまく組んだわけでございまして」
博労の李は、金細工商の朱から届いた手紙を頭の中で反芻した。朱の見たところでは、『土地の豪族たちは、様々な勢力が荊州で略奪を繰り返すのに嫌気がさしていて、強力で安定した政権による統治を望んでいる』らしい。劉表の豪放磊落そうな態度や、荊州の有力者を重んずるやり方が、有力者たちの琴線に触れたのだろう。しかも妻を失っていた劉表は、後添えを荊州の大豪族である蔡氏から迎えた。これも荊州の有力者の心を掴んだ。
「ふーむ」
孟徳は腹の底からうなり声をあげた。
「そうか。あの男、投げ出すと思ったが存外よ、のう」
「劉景升(表)も当初はなかなか手こずったようです。しぶとく粘りましたな、なかなかの手並みでございます」
李は片頬だけで笑った。
袁術もあれでは手も足も出まい。侠気(おとこぎ)をむねとした公路(術)が、怒りに拳を震わせている様を想像すると愉快だった。生え抜きの貴公子が感情を露わにするという、君子の御法度をかなぐりすてる様に、李は腹を抱えて笑いたくなった。いつか、じきじきに南陽に行って公路の顔をとくと見てやりたい。
曹操は手を打って喜んだ。
「御意、御意にてございます」」
同感である。李は嬉しくなった。
「それにつけてもあの孫堅という暴れ者、なぜ? なぜだ! なぜ、袁公路(術)の配下にはいりおったのか」
孟徳はぱっと袖を払いのけ肩を怒らせた。そればかりか、まるで敵のように李をにらみ付ける。
「それは朱儁のせいでございます。朱儁が同郷の孫堅を武将に引き立てた。同郷の者は互いを裏切ってはならないのです。そして朱儁はかって袁術の父親である司空袁逢の引き立てで官位を得ました。袁術の家とは、上司と部下という主従関係で結ばれました」
「おお。上司と部下という間柄は生涯続く、親から子へと受け継がれていくこともある。朝廷との関係よりも濃い」
「十分にあり得る」
孟徳は幾度も頷いた。
「うむ。うむ。そうなのだ」
「密偵を潜らせたほうがよろしゅうございましよう」
「うむ」
「胡三明を送りこみました。ひょっとすると十年は荊州で暮らすことになりますが」
「抜かりがない。近頃、三明の顔を見かけぬと思うたが、荊州へ行ったのか。鬼の三娘とやらが寂しがっているだろう」
曹操は目を細めた。
「はっ。ま、仲がよいものですから」
李はうつむいた。
孟徳に報告すべきか、李の胸に納めておくべきか……三明を荊州に送ったのは、金細工商の朱の願いを容れてのことだ。三明は張娘を娶ることになろう。その張娘の素性を孟徳に明かすつもりはない。このことを知れば孟徳は李を許すだろうか?
つづく。