豪侠の代償

        豪侠の代償

 進士の崔涯、張祜(こ)は科挙の試験に落第したので江淮の地を遊びまわった。つねに酒を嗜み、当世の人物を侮謔(ぶぎゃく)した。あるときには酒の勢いで自らを豪侠と称した。この二人の好みは同じだったので、たがいにこれと甚だ気があった。崔はかつて、侠士詩を作って云う。
 
太行嶺上三尺雪  太行嶺上三尺の雪(たいこうれいじょうさんじゃくのゆき)
崔涯袖中三尺鉄  崔涯袖中三尺の鉄(さいがいしゅうちゅうさんじゃくのてつ)
一朝若遭有心人  一朝若し有心の人に遭へば
出門便與妻児別  門を出て便ち妻児と別れん
 
≪意味≫
 かの険しい太行山脈の、そびえる嶺の上におく三尺の雪は気高く清い。
この崔涯の袖の中に潜む三尺の鉄剣も、『おとこぎ』ゆえに太行嶺上の雪に優る。
志を秘めて市井に棲めど、一朝、志を同じくする人に遭えば
われは妻子と別れ、門を出て同志とともに行かん。
注:雪と鉄、韻を踏んでいる。
  韻を踏ませるために本来『剣』とすべきところを『鉄』に置き換えてある。なお、唐代の剣は古代とちがって鉄製である。
 
 この詩は往往にして流布し、人々は、「崔と張は真の侠士だ」と、ほめそやしたものである。それからというもの、多くの人々が酒や肴を設けて彼らをもてなし、たがいに引き立てを得ようとした。
 のちに張祜はこの詩のおかげで、塩鉄使という官に抜擢された。その子に「漕渠」という小職を授けたが、堰の名に「冬瓜(とうか)」というものがあった。
「若君にこの職はよろしくありませぬぞ」
  或るものがふざけた。
「冬の瓜は更代の時期がなくてさいわいがおおい、()子にぴったりだよ」
 張が答えた。ふざけた者たがいに大いに晒(わら)った。
 一年あまりたった。はじめて資力にゆとりがでるようになった。
とある夕べ、みるからにすぐれた男がいかにも武ばったいでたちで訪ねてきた。腰に剣をさげ、囊(ふくろ)を手にしていた。囊の中になにやらいれてあるらしく、さかんに血が外にながれだしている。この男が門を入ってきて云った。
「ここは張侠士の住まいではござらぬか」
「そうだ」
張は答えた。
客に会釈したが、たいそう相手を尊重した。向き合って座った。
「讎人への恨みがあった。仇を討とうと思い十年が過ぎた。今宵、とうとう望みが叶いましたぞ。この喜びを抑えることはできませんな」
ぞ」男はそう言って囊(ふくろ)を指差した。
「これがその首でござる」
 それから張に問うた。
「酒店はありますか。それともござらぬか」
「やあ、これは気がきかぬこと」
 張は酒を持ってきて男に飲ませるように命じた。
 男は酒を飲み終わるとおもむろに言った。
「ここから三、四里ばかりのところに一人の義士がおりまして、予(われ)はこれに報いたいと思っています。もしもこの夕べに助けることができたら、則、平生の恩讎が終わります。公は義に感ずる人と聞く、予に十万緡(さし)の銭を貸してくれるか、否や。直ちにこれに酬いたいと思う。これ予の願い悉くす、この後赴いて、湯火を蹈もう、誓って憚るところはござらぬわい」
 男の話を聞いた張は心底から喜んだ。そして吝嗇になってはいけないと思った。すぐさま燭(あかり)のもとで囊をかたむけ、その白い縑(かとりぎぬ)の中等の物を籌(かぞえ)て、十万緡を量って与えた。
 「いいぞ。恨むところなしだ。ついに生首が入った囊(ふくろ)を残して行くが、約束の期日がきたら戻ってきますぞ」
客は嬉しそうにそう言った。
客は立ち去ったが約束の期日になっても戻ってこなかった。五更(午前四時)を知らせる太鼓の声が鳴りやんでも杳として行方が知れない。また、囊のなかの首があきらかになって己に累が及ぶのが気がかりだった。
あの客は来ない、計出るところなしで困り果てた。そこで家人をやって囊(ふくろ)をあけてなかをしらべさせると、これが豕(ぶた)の首だった。
この一件以来、豪侠の気はとみに衰えてしまった。
 
 
注*侮謔(ぶぎゃく)
  あなどりたわむれる。ひやかす。
注*豪侠
 すぐれて強く侠気に富むこと。また、すぐれたおとこだて。
 
注*塩鉄使(えんてつし)
官名。唐の乾元元年(758)、始めて置いた。食塩の専売をつかさどるが銀、銅、鉄、錫の採鉱、製錬の徴税をつかさどった。のちには茶葉の専売もつかさどった。
また、淮南節度使をも兼任した。諸道の塩鉄使は常に諸道の転運使をも兼任したので,塩鉄転運使とも称された。転運租庸塩鉄使、度支塩鉄転運使、転運常平鋳銭塩鉄使、水陸運塩鉄租庸使等の呼称がある。隨事名称を立てたので時世によって呼称が変わった。(百度百科より抜粋)
注*瓜(くわ、け)
  うり。
  瓜の形をした儀仗の具。
 瓜葛(くわかつ)
  うりとくず。ともにつる草、転じて親類縁故のたとえ。【瓜葛の親】縁つづきのあること。【瓜期(くわき)】任期が終わった時。更代の時。→瓜期(かじ)
瓜時(くわじ→かじ)
 瓜の熟する時、陰暦七月。春秋、斉の襄公が連称と管至父とをして葵丘を戍(まも)らせ、瓜の熟する頃に遣して明年の瓜の熟する頃に更代(こうたい)させようと約した故事。転じて任期の満ちるとき。更代の時期。
注*祜()
  さいわいが多い
注*薄
  発語の助辞
  いささか、しばらく。はじめて。
注*緡(びん)
 銭さしのなわ
注*酧(しゅう)
  酬の俗字。むくいる。むくい。
注*却回(きゃくかい)
  しりぞきかえる。
注*五鼓(ごこ)
  五更(午前四時)に打つ鼓。
注*蹤跡(しょうせき)踪(しょう)は蹤の俗字
  あしあと。また、かりてもののあとかた。ゆくへ。ありか。
 
太平広記 詭詐 張祜
Chinese Text Projectより  拙訳

いわゆる、騙(かた)りにしてやられた話です。考えてみれば張祜自身も粋がって崔涯が作った詩のおかげで豪侠だと騒がれ、ただ飯、ただ酒を大いにふるまわれ、科挙に合格もしないのに『豪侠』をみこまれて塩鉄使という、非常に旨味のある官職をえたわけですから、騙りであるわけです。
 いまでもそうですが、当時の裁判の判決は理不尽なことが多く、民衆は憤怒に髪が逆立つような思いを耐え忍んできました。
 魏晋南北朝の時、「或る男が友人とともに旅にでて、途中で友人が山賊に殺される。男はほうほうの体で逃げ帰り、友人の家族に悲報を伝える。すると男は、友人殺害を疑われて逮捕されてしまう」という事件を、裁いた役人は、
「一緒に行って、戻ってきたのはお前一人だけだ。だから、お前が殺したのだ」と、男を友人殺害の犯人に仕立て上げ、牢にぶちこむ始末。
役人は、河北の名門出身でたしか、崔か盧という姓だったと思いますが、お粗末過ぎて、これには傍で聞いていた同僚たちが噴出したといいます。

そこまで酷くなくとも、時の力関係や財力が裁判を左右します。そんなとき、たよりになるのが『侠士』でした。断言するのは少し乱暴かもしれませんが、『必殺仕置き人』にちかい意味合いを持つと思います。