伝国の玉璽(ぎょくじ)物語一
伝国の玉璽(ぎょくじ)物語一
画像は百度百科より
その形は、四角と丸がたで四寸、上の紐通しに五龍の像が彫られていて、印の正面には李斯(りし)が書いた『受命于天,既壽永昌』の八文字が篆書体で刻まれている。皇帝の権力が天神から授かった正統合法なものである徴(しるし)の品とされた。
その後、歴代帝王はみなこの璽を得て天命に符合したとし、珍しい宝を奉ずるように国の貴重な宝とした。
これを得れば「天の命を受け」、これを失えばすなわち「命運尽きようとしている」ことをあらわす。大位(至高の座)に登ったものの、この璽無き者は「白版皇帝」と譏(そし)られ、正統でないように思われ、世人に軽蔑された。それゆえに、大宝(至高の座。天子の位)を謀ろうとする輩は、こぞって争奪しようとした。当然のことながら、伝国の玉璽はたびたびその持ち主が易わった。
神州赤県を転々とすることおよそ二千余年、忽然と隠れ忽然と現れ、ついには姿をくらまし、今に至るまで杳として行方不明で、人をして腕を押さえて嘆息せしめる。
伝国の玉璽は和氏の璧でつくられた。春秋楚の人、卞和が山中で一璞玉(はくぎょく。あらたまのこと)を得て、楚の厲王(れいおう)に献上したが、ただの石ころとみなした玉工の言葉を信じた王の怒りをかい、左足を刖(あしき)りの刑に処せられる。
のちに武王が即位したので武王に献上したところ、君を欺いた罪により、再び右足を刖(あしき)りの刑に処せられた。
文王が即位するに及んで卞和は、玉を抱いて荊山の下に座りこみ、三日三晩哭(な)いた。文王は人をさしむけて問うた。
すると卞和は答えた。
「わたしは刖(あしき)りの刑を悲しんで哭いているのではありません。宝玉の運命を悲しんでいるのです。これを石に題しました。『貞士あり。しこうしてこれに名づけるに誑(きょう)を以てす」
文王は良工に命じて璞(あらたま)を剖(わ)ってみさせると、はたして宝玉を得た。そこで和氏(かし)の璧と称した。
驚くべきことに、和氏の壁は卞和に見いだされてから、世人にみとめられるまでおよそ五十年もの歳月を経ている。
威王のとき、相国の昭陽は越を滅ぼすのに功が有ったので、王は和氏の璧をこの者に賜わった。
「淵の中に大きな魚がいるぞ」
衆人は部屋を離れ、淵に臨んでこれを見た。席に戻ると、和氏の璧は翼もないのにどこかへ飛んでしまい、影も形もなかった。
当時、門人の張儀が盗んだと疑われた。
儀は捕えられて厳しい取り調べと拷問をうけたが、これといった成果はなかった。張儀はこの凌辱に恨みを抱いた。そこで楚国を離れて魏国に行くと再び秦国に入った。秦の恵文王の后元十年(前315年)、秦の相を拝(さずか)り、諸国を遊説して斉に背いて秦と連合するように説いた。また使節の身分をもって楚に入り、斉と楚の連盟を瓦解させた。
後に懐王を拘(とら)え、郢都(えいと。楚の国都)を制圧し、楚の漢中の地をことごとく取り、ついにこの仇に報いることができた。
当時、秦は強国で趙は弱小国だった。趙王は璧を献じて城を得ることができないのを恐れた。左右はこの問題に頭をいためた。繆賢の舎人(けらい)である藺相如(りんしょうじょ)が秦への使者に任命された。秦の昭王に見え、和氏の璧を捧げた藺相如は、昭王の様子から城を引き渡す気がないのを悟り、「璧(たま)に瑕(きず)があります。お見せしましょう」といって、昭王から璧をとりもどすと
昭王をなじった。怒髪冠を衝かんばかりの勢いで柱を背に、和氏の璧もろとも命をくだかんとする相如の覚悟に、壁が砕かれるのを昭王は恐れて無礼をいったんは詫びた。しかし、城を渡すことなく璧を得たいという秦の欲望は鎮められず、機会を待った。
昭王の気持を察した相如は、従者に粗末な毛織物の衣を着せ、和氏の璧をもたせて秦の王宮から脱出させて間道伝いに趙国に帰らせた。怒る秦王、応酬する藺相如。ついに昭王は屈服し、相如はみごとに使命を果たし、璧を全うして帰国したのである。
このことから和氏の壁は「連城の璧」ともいわれるようになった。
注*刖(げつ)
きる。たちきる。足きりの刑
注*三版
普通、一版は八尺または一丈とされるが、ここではP318趙、では二尺とすべきか。三版は六尺。
注*顕得
~のように思われる。~のように見える。
注*底気十足
千人力 心丈夫であること。
注*赤県
中華をさす。中国。中土。中国を赤県神州という。
注*大宝(たいほう)
自分をさす。天子の位をさす
注*太監(たいかん)
遼代の時の官名であるが、宦官を用いたので転じて後世、宦官をさす
伝国の玉璽は本来、和氏(かし)の璧(へき)でつくられたといわれる。和氏の璧といえば美玉の総称になったが、『和氏の璧』は中国史上、もっとも有名な美玉で、世に伝えられた数百年の間、値がつけられない宝として珍重された。
和氏の璧はまた荊玉、荊虹、荊璧、和璧、和璞(かはく)とも称され天下の珍しい宝とされた。
手前は卞和の像 右手奥は天下の名玉『和氏の璧』を出土した玉印岩 グーグルマップより
玉印岩入り口 グーグルマップより。
人名、地名の読み方は筑摩の史記に従いました。
また、伝国の璽について、つねづね奇しい運命を感じ、
何か書いてみたいと思いましたが、すでに中国の作家が書いておられますので、パス。
自分なりに調べた資料で展開します。長いので、三回くらいに分けるつもりです。