伝国の玉璽(ぎょくじ)物語 二
伝国の玉璽(ぎょくじ)物語 二
伝国の玉璽物語一で説明がもれた戦国趙、戦国秦の君主たちを簡単であるが注釈をつけてみよう。
注*趙の恵文王
趙の恵文王(前308年生─前266年卒),また文王とも称した。嬴姓,趙氏,名は何。東周戦国時代の趙国の君主。趙の武霊王の次子。在位は前298年~前266年。
注*秦昭王
秦昭襄王(前325年~前251年)、また秦昭王とも称される。嬴姓,趙氏,名は則。またの名は稷。秦の恵文王の子で秦の武王の異母弟である。戦国時代の秦国の国主。年若くして人質として燕国で暮らした。西紀前307年、秦の武王が逝去した。昭襄王とその弟が王位を争ったが、ついに昭襄王が即位した。在位は紀元前306年から紀元前251年、中国の歴史上在位期間が最も長い君主の一人に数えられる。彼の在位中に秦国は引き続いて領土を拡張した。最も有名で、秦と趙両国の命運を分けたのは長平の戦い(古戦場は山西省高平市長平村)で、秦の昭王の治世の晩期に起きた戦である。
秦の昭襄王の在位の初期は、その生母である宣太后が実権を握り、太后の異父弟である、外戚の魏冄(ぜん)を宰相に任命した。史官は「王、年若くして宣太后自ら事を治め、魏冄を任じて政をなさしめ、威勢は秦国に震う」と記した。
秦の昭襄王四十一年、昭王は魏国の人范睢(はんしょ)の話に従い宣太后、魏冄等の人から権力を奪い、范睢を宰相とし、改めて「遠交近攻」政策を施行した。また長平(今の山西省高平市西北の長平村)の戦で趙軍に大勝利した。
配下に文では范睢あり、武では白起等の能臣良将があり、紀元前256年に西周公国を滅亡させ(この西周国は周王朝の前期をさす西周ではなく、周王朝が戎の害をさけて東に移った東周王朝のうちの戦国末期の一公国である)、秦の統一戦争の勝利の土台を定めた。秦の昭襄王の五十六年、昭襄王は七十五歳で世を去った。
注*三晋
韓、魏、趙の三国
注*西周国
中国史上の古の国名。戦国時代の一小国で爵位は公爵である。周の考王元年(紀元前440年)、周の考王姫嵬(きかい)はその弟の姫掲を河南に封じた。現在の洛陽市およびその西部地区が公国の領土だった。姫掲は西周の桓公と諡(おくりな)されたが、ここに西周公国が誕生した。
西周公国は桓公が卒すると子の威公が継ぎ、威公が卒すると子の恵公が立った。恵公は末子を鞏(きょう)に封じて王とし、東周の恵公と号した。西周公国の恵公の長子は西周公である。ややこしいが、東周王朝のなかに西周国と東周国が存在するようになったのである。
注*鞏(きょう)
河南省鞏の西北。
和氏の璧についてはすでに記録が失せ、実際にどのようなものであったのか、今となっては知りようがない。包括的に、創作文学中に記された描写によって想像するのみだが、秦の始皇帝が和氏の璧をもちいて玉璽を作ったという故事来歴から鑑みて、和氏の璧と出土の文物の類例からみると、すくなからずとも外形をみるかぎり、あきらかに一様でないことがわかる。推量するに和氏の璧の厚さは10センチメートル、古人の儒学者が佩びた環状の佩玉に似ている。
秦
秦がいつ、和氏の璧をもちいたかは記録にないが、秦王政(始皇帝)の十年(前237年)、李斯≪諫逐客書≫中に「今、陛下昆山の玉を致すに、随(随侯の珠)、和の宝あり」という記述がみられる。すなわち随、和の宝とは随侯の珠と和氏の璧をいい、この二つは当時、有名な宝物である。すでにこの宝が趙国にはなく、秦国にあったということである。
これより以降、和氏の璧の記録が少なくなる。
漢
秦王になって四十六日目、子嬰(しえい)は頸に紐をかけ、白馬の素車(そしゃ)にのり、天子の璽符を奉じて軹道亭(しどうてい)で降伏した。
これにより御璽は漢の伝国の宝となった。
注*素車(そしゃ)
白い車。かざりのない車。葬式用の車である。
つまり、秦王嬰は「私の罪は万死に値します」という意味をこめて、
自殺用に頸に紐をかけ、自分の葬式用の車を用意して行ったのである。古式 の降伏の作法。
中国歴史地図集 三聯書店(香港)より
伝国の璽(百度百科より)
伝国の璽(百度百科より)
伝国の璽は藍田(らんでん)の玉でつくられているという説もある。
諸橋轍次の大漢和によれば、
伝国璽
歴代の天子が宝とした印。
秦の始皇の時、卞和の璧または藍田の玉を取って刻したという。その文に「受命於天(めいをてんにうく)、既壽永昌(しこうしてじゅながくさかんなり)」とあり、漢の高祖はこれを収めて六璽の外とし、世にこれを伝国璽という。恐らくは王莽のときに滅びたであろう。
隋には受命璽といったが、唐は承天大宝と改めた。而して唐初には景命璽を作り、宋初には承天受命・恭膺天命の諸璽を作って伝国璽とした。
元、明、清また別に国璽を制定している。
【漢書 元后伝】
初め、漢の高祖は咸陽に入り㶚上に至る。秦王子嬰は軹道(しどう)に降るに、上に始皇の璽を奉れり。高祖は項籍を誅(ころ)して天子の位に即くに及び、その璽を服して臨まれた。世々、伝授して漢の伝国の璽とす。
【宋書、禮志】
虞喜志林に曰く、伝国の璽はおのずと六璽の外にあり、天子は凡そ七璽なり。
【太平御覧、儀式部、璽】
伝国の璽はこれ秦の始皇刻む所なり、その玉は藍田山に出で、これ丞相李斯の書くところなり。その文に曰く、「受命于天、既壽永昌」と。漢の高祖、三秦を定む、秦王子嬰、この璽を献ず。漢の高祖、即位するに及びこれを佩びる。よりてもってあい伝う。ゆえに号して伝国の璽という。
【太平御覧、儀式部、璽】
漢旧儀に曰く、皇帝六璽はみな白玉螭虎紐である。文に曰く「皇帝行璽・皇帝之璽・皇帝信璽・天子行璽・天子之璽・天子信璽」のおよそ六璽である。
皇帝行璽
諸侯王に賜う書につかう。
皇帝信璽
兵を発し、大臣を徴すときに使う。
天子行璽
外国の事につかう
天子之璽
天地鬼神につかえるときに使用