伝国の玉璽(ぎょくじ)物語 三
伝国の玉璽(ぎょくじ)物語 三
漢室から王莽の新へ
王莽が漢を纂奪したとき、人を差し向けて、自分のおばにあたる漢の孝元太后(王政君)に、伝国の玉璽を求めた。このとき、王政君は大怒して玉璽を地上に投げつけた。そのため、伝国の玉璽の一角が欠けてしまった。王莽は金でこれを補修した。
王莽の新から更始、赤眉へ。さらに光武帝に
王莽が敗れたとき、李松という者が璽を持って宛の城に詣(いた)った。この璽を更始帝に上(のぼ)せた。更始が敗れると璽は赤眉のものになった。赤眉は劉盆子という者を天子に立てた。劉盆子が敗れると、赤眉は璽を、後漢の光武に奉じた。
消えた玉璽は孫堅へ
孫堅が兵を率いて洛陽に攻め入った。
ある日の辰の刻、城南にある甄官(けんかん)の井戸から、五彩の雲気が立ち上るのを、孫堅の兵士が見つけた。ついに孫堅は井戸の中に人を入れて探らせた。井戸に身を投げて自尽した宮女の骸があって、その頸に一つの小箱がかけてあった。箱の中から現れたのが、まさしく伝国の玉璽だったという。孫堅は伝国の璽を手に入れると、妻の呉氏のところに隠した。
それを知った袁術は堅の妻、呉氏を捕えて奪った。
後漢から魏へ
魏から晋へ
西紀311年、前趙の劉聰(りゅうそう)が晋の懐帝司馬熾(しばし)を平陽に連れ去ったとき、玉璽は前趙に帰した。西紀329年、後趙の石勒(せきろく)が前趙を滅ぼしたとき、伝国の璽を得て右側に「天命石氏」の文字を彫らせた。
冉閔(ぜんびん)の魏へ
閔は使者を派遣して、江に臨んで晋に告げて言った。
「逆胡が中原を乱した。今すでにこれらを誅滅した。ともによくこれらを討つつもりならば軍を出しなさい」
東晋の朝廷はこれに応じなかった。
五月甲寅(二日)、燕王慕容儁、広威将軍の慕容軍、殿中将軍の慕輿根(ぼよこん)、右司馬の皇甫真らに歩騎二万を帥いさせ、慕容評の鄴攻めを助けさせた。
五月辛卯(三日)、燕人は冉閔を龍城で斬った。
ここからはとても長くなるので、面倒な方は読み飛ばして下さい。玉璽をめぐる欲望とかけひきが、あまりにもドラマチックだったので、
ついつい、無我夢中で史料にのめりこんでしまいました。
また、はじめに見た百度百科が誤りだらけだったので、史料で検証していったのですが、のめりこんでしまった。
なお、今の百度百科は正しく訂正されていますね。
永和八(352)年、魏主冉閔、すでにして襄国を克つ。勝ちに乗じて常山、中山の諸郡を周遊し荒らしていった。
趙国の立義将軍、段勤は胡、羯万余人を聚めて絳幕(こうばく)を保ち、そこに拠って趙帝と自称した。
魏主冉閔は、今まさに燕と戦わんとしたが大将軍董閏、車騎将軍張温が諫めて曰く、
閔は怒って曰く、
「わしはこの衆でもって幽州を平げ、あの慕容儁を斬ろうと思っているのに、今、慕容恪との一戦を避けたならば人は、わしをどういうだろうか?」と。
閔の司徒劉茂、特進の郎闓(ろうがい)は、
「わが君が行けば、必ず帰らず。われらはどうして座したまま敵の戮辱を待たんか」と、たがいに言い合って皆、自殺した。
閔は安喜に駐屯した。慕容恪は兵をひきいて安喜に行った。
閔は常山に赴く。恪はこれを追って魏昌の廉台に至った。閔と燕兵十たび戦い、燕兵はみな勝っことができなかった。
冉閔はもとより勇名を馳せていた。しかも、彼が率いる兵は精鋭ぞろい、燕人はこれを憚った。
ああ、これはいかんぞ。燕の慕容恪は、陣をめぐって将士に説いた。
「冉閔という男はのう、勇敢だが謀を欠いておる。さればじゃ、一夫の敵となるのみの器量。その士卒ときたらば飢え疲れ、精鋭とは名のみ。その実は、用い難く敵を破るには力不足だ」と。
閔が率いる兵は歩兵が多い。ところが燕は、みな騎兵だった。兵を率いてまさに林中に赴こうとした。
すると、恪の参軍の高開という男が曰く。
「わが騎兵は平地に利あり。もし閔が林に入ってしまえば、また制することは不可能だ。まさに、速やかに軽騎をだして閔の歩兵に迫らせ、すでにして閔の兵と出会えば、表向きは走るとみせかけながら平地に誘導し、しかるのちに撃つのです」と。
恪はこの進言に従った。
迫られた魏兵は、平地をめざして引き返した。
燕の恪は、軍を三部に分けた。そして諸将に言いて曰く。
「閔の気性はすばやくて鋭い。また、みずからの衆が少いので、必ずや一戦で勝ちを決め、われらを死に追いやろうとする。われらは中軍の陣に兵士を厚く集めておいて閔を待ち、合戦を待とう。卿等は傍らからこれを撃てば、克たないといことは無いぞ」と。
閔が乗る馬は名を朱龍といい、日に千里を行く駿馬だ。閔は左手に両刃の矛(ほこ)をとり、右手には鈎戟をとり、これらでもって燕兵を撃ち、斬首は三百余級に上った。
閔は大幢(だいとう)をはるかに望みみて、それが中軍であることを知るとり、直ちに突進してこれを衝く。(原文は冲)。
注:幢(とう)
はた。まく
閔を囲む燕人の包囲は数重、閔は囲みを潰して東へ二十余里走った。そのとき朱龍が忽然と斃れ、閔はついに燕兵に捕えられてしまった。燕人は魏の僕射の劉群を殺し、董閔、張温および閔を捕えてみな燕の都である薊(けい。現北京市)に送った。
閔の子、冉操は魯口へ奔った。
燕を勝利に導いた燕の高開は、このとき創(きず)つき、卒した。
慕容恪は常山に進屯した。儁は恪に命じて中山を鎮めさせる。
東晋では永和八年(352)五月はじめ、謝尚が戴施を枋頭に拠らせていた。施は魏の蔣幹(しょうかん)が救援を求めていることを知り、倉垣から棘津(きょくしん)に陣営を移した。戴施は蔣幹の使者を止めて伝国の璽を求めた。劉猗は繆嵩を鄴にもどらせ幹に、「援兵は伝国の璽と引き替えである」ことを言う。
幹はなおも東晋が救援しないのではないかと疑い、沈吟未だ決心がつかない。
六月、戴施は壮士百余人を帥いて鄴に入り、三台の守を助けさせた。蔣幹に紿(あざむ)いて曰く
「今、城の外は燕兵が取り囲んでいて、道路は塞がっている。そのために璽を未だ敢えて送ろうとしないのか。卿(あんた)、璽を出してわしに渡しなさい。わしは今まさに馳せて天子に申しあげよう。天子は璽がわしのところにあると聞けば、卿の至誠を信じて、必ずや沢山の兵糧を発(つかわ)し、もってここの窮状を救いましょう」と。
蔣幹はなるほどと思い、璽を取り出して彼に渡した。
戴施は、督護の何融に粮(かて)を迎えさせると宣言し、ひそかに璽を抱かせて枋頭に送らせた。
六月甲子(六日)、蔣幹は鋭卒五千および晋兵を帥いて出戦した。慕容評はこれを大破し、斬首四千級を得た。蔣幹は脱走して鄴に入城した。
燕王の慕容儁(ぼようしゅん)は欺いて宣言した。
「董氏は伝国の璽を得てこれをわが燕国に献上した」と。
そして董氏に「奉璽君」の号を賜った。………。
以上、史料は資治通鑒より拙訳。
永和八年八月、冉閔の子、冉智、鄴をもって降る。督護の戴施、その伝国の璽を得てこれを送る。文に曰く「受天之命、皇帝壽昌」と。百僚ことごとく賀(いわ)う。
九月、冉智、その将の馬願に捕えられるところとなり、慕容恪に降る。中軍将軍殷浩、衆を帥いて北伐するに、泗口にいたった。河南太守の戴施を遣わして石門に拠らせ、滎陽(けいよう)太守の劉遂に倉垣を戍(まも)らしむ。
注*国境警備のときには戍をおもに使っているようだ。