伝国の玉璽(ぎょくじ)物語 三

      伝国の玉璽(ぎょくじ)物語 三

 漢室から王莽の新へ
 王莽が漢を纂奪したとき、人を差し向けて、自分のおばにあたる漢の孝元太后(王政君)に、伝国の玉璽を求めた。このとき、王政君は大怒して玉璽を地上に投げつけた。そのため、伝国の玉璽の一角が欠けてしまった。王莽は金でこれを補修した。


 王莽の新から更始、赤眉へ。さらに光武帝
 王莽が敗れたとき、李松という者が璽を持って宛の城に詣(いた)った。この璽を更始帝に上(のぼ)せた。更始が敗れると璽は赤眉のものになった。赤眉は劉盆子という者を天子に立てた。劉盆子が敗れると、赤眉は璽を、後漢の光武に奉じた。


 消えた玉璽は孫堅
 後漢献帝のとき、董卓が乱を起こした。このとき玉璽の所在を失った。
 孫堅が兵を率いて洛陽に攻め入った。
 ある日の辰の刻、城南にある甄官(けんかん)の井戸から、五彩の雲気が立ち上るのを、孫堅の兵士が見つけた。ついに孫堅は井戸の中に人を入れて探らせた。井戸に身を投げて自尽した宮女の骸があって、その頸に一つの小箱がかけてあった。箱の中から現れたのが、まさしく伝国の玉璽だったという。孫堅は伝国の璽を手に入れると、妻の呉氏のところに隠した。

 孫堅から袁術へ、そして漢へ
 それを知った袁術は堅の妻、呉氏を捕えて奪った。
 袁術の死後、荊州刺史の徐璆(じょきゅう)が玉璽を携えて許昌にいたった。
 時に曹操は漢の献帝を手挟んで許昌にいたが、これより伝国の璽はまた漢室に帰したのである。


 後漢から魏へ
 西紀220年、曹丕が漢帝に禅譲をせまり、漢は滅びた。
 曹丕は伝国の璽の肩の部分に隷書で「大魏受漢伝国璽と刻ませた。


 魏から晋へ
 西紀265年、司馬炎が魏に禅譲をせまり、晋を興したとき、伝国の璽は晋に帰した。
 
 晋から前趙へ、そして後趙
西紀311年、前趙の劉聰(りゅうそう)が晋の懐帝司馬熾(しばし)を平陽に連れ去ったとき、玉璽は前趙に帰した。西紀329年、後趙の石勒(せきろく)前趙を滅ぼしたとき、伝国の璽を得て右側に「天命石氏」の文字を彫らせた。
 
 冉閔(ぜんびん)の魏へ
 西紀350年、冉魏(ぜんぎ)に伝えられた。
 五胡十六国時代にあって数少ない漢人国家である。
  
注*晋の穆帝の永和六年(350)夏四月、冉閔は李農およびその三子を殺し、あわせて尚書令王謨、侍中の王衍、中常侍の厳震、趙昇を殺した。
 閔は使者を派遣して、江に臨んで晋に告げて言った。
「逆胡が中原を乱した。今すでにこれらを誅滅した。ともによくこれらを討つつもりならば軍を出しなさい」
 東晋の朝廷はこれに応じなかった。
 
 永和八年(352)五月、冉魏の都、鄴(ぎょう)は大いに飢え、人はたがいに食らいあった。(←鮮卑族前燕に囲まれていたから)
 もと、趙国(羯族石氏の趙)の宮人は食われてほぼ尽きてしまった。(食らい尽くされて生き残った者がいないこと)。
 後趙の君主、石虎(字は季龍)は、大規模に民間から婦人を徴発して後宮にいれた。中には人妻まで奪って後宮に充てたという、経緯がある。哀れにも、無理矢理に後宮に入れられて、こんどは食料にされたのだ。

 蔣幹は侍中の繆嵩(ぼくすう)、詹事(せんじ)の劉猗(りゅうい)を使者にたてて表を奉じて東晋に投降することを請うた。且つ、東晋の謝尚に援兵を求めた。
 五月甲寅(二日)、燕王慕容儁、広威将軍の慕容軍、殿中将軍の慕輿根(ぼよこん)、右司馬の皇甫真らに歩騎二万を帥いさせ、慕容評の鄴攻めを助けさせた。


 五月辛卯(三日)、燕人は冉閔を龍城で斬った。

 ここからはとても長くなるので、面倒な方は読み飛ばして下さい。玉璽をめぐる欲望とかけひきが、あまりにもドラマチックだったので、
 ついつい、無我夢中で史料にのめりこんでしまいました。
 また、はじめに見た百度百科が誤りだらけだったので、史料で検証していったのですが、のめりこんでしまった。
 なお、今の百度百科は正しく訂正されていますね。


 永和八(352)年、魏主冉閔、すでにして襄国を克つ。勝ちに乗じて常山、中山の諸郡を周遊し荒らしていった。
 趙国の立義将軍、段勤は胡、羯万余人を聚めて絳幕(こうばく)を保ち、そこに拠って趙帝と自称した。
 
 夏四月甲子(五日)、燕王(前燕のこと)慕容儁、慕容恪(ぼようかく)等に魏を撃たせ、趙帝を名乗った段勤を慕容霸等に撃たせた。
 魏主冉閔は、今まさに燕と戦わんとしたが大将軍董閏、車騎将軍張温が諫めて曰く、
鮮卑は乗勝して前軍は勢いがあって鋭い。且つ彼の兵は多く、わが兵は寡(すくな)い。まさにこれを避けるべきだ。驕って兵が警戒を怠ったときを待ち、しかるのちに兵を増してこれを伐ちましよう」と。
閔は怒って曰く、
「わしはこの衆でもって幽州を平げ、あの慕容儁を斬ろうと思っているのに、今、慕容恪との一戦を避けたならば人は、わしをどういうだろうか?」と。
 
 閔の司徒劉茂、特進の郎闓(ろうがい)は
 「わが君が行けば、必ず帰らず。われらはどうして座したまま敵の戮辱を待たんか」と、たがいに言い合って皆、自殺した。


 閔は安喜に駐屯した。慕容恪は兵をひきいて安喜に行った。
 閔は常山に赴く。恪はこれを追って魏昌の廉台に至った。閔と燕兵十たび戦い、燕兵はみな勝っことができなかった。
 
 冉閔はもとより勇名を馳せていた。しかも、彼が率いる兵は精鋭ぞろい、燕人はこれを憚った。
 ああ、これはいかんぞ。燕の慕容恪は、陣をめぐって将士に説いた。
「冉閔という男はのう、勇敢だが謀を欠いておる。さればじゃ、一夫の敵となるのみの器量。その士卒ときたらば飢え疲れ、精鋭とは名のみ。その実は、用い難く敵を破るには力不足だ」と。
 閔が率いる兵は歩兵が多い。ところが燕は、みな騎兵だった。兵を率いてまさに林中に赴こうとした。
 すると、恪の参軍の高開という男が曰く。
「わが騎兵は平地に利あり。もし閔が林に入ってしまえば、また制することは不可能だ。まさに、速やかに軽騎をだして閔の歩兵に迫らせ、すでにして閔の兵と出会えば、表向きは走るとみせかけながら平地に誘導し、しかるのちに撃つのです」と。
 恪はこの進言に従った。


 迫られた魏兵は、平地をめざして引き返した。
 燕の恪は、軍を三部に分けた。そして諸将に言いて曰く。
「閔の気性はすばやくて鋭い。また、みずからの衆が少いので、必ずや一戦で勝ちを決め、われらを死に追いやろうとする。われらは中軍の陣に兵士を厚く集めておいてを待ち、合戦を待とう。卿等は傍らからこれを撃てば、克たないといことは無いぞ」と。


そこで燕人は鮮卑の善射の者五千人を選んで、鉄鎖で射手の馬を連結して方陣を作りながら進んだ。
閔が乗る馬は名を朱龍といい、日に千里を行く駿馬だ。閔は左手に両刃の矛(ほこ)をとり、右手には鈎戟をとり、これらでもって燕兵を撃ち、斬首は三百余級に上った。
閔は大幢(だいとう)をはるかに望みみて、それが中軍であることを知るとり、直ちに突進してこれを衝く。(原文は冲)
注:幢(とう)
  はた。まく
 
 閔を囲む燕人の包囲は数重、閔は囲みを潰して東へ二十余里走った。そのとき朱龍が忽然と斃れ、閔はついに燕兵に捕えられてしまった。燕人は魏の僕射の劉群を殺し、董閔、張温および閔を捕えてみな燕の都である薊(けい。現北京市)に送った。
 閔の子、冉操は魯口へ奔った。
 燕を勝利に導いた燕の高開は、このとき創(きず)つき、卒した。
 慕容恪は常山に進屯した。儁は恪に命じて中山を鎮めさせる。

 東晋では永和八年(352)五月はじめ、謝尚が戴施を枋頭に拠らせていた。施は魏の蔣幹(しょうかん)が救援を求めていることを知り、倉垣から棘津(きょくしん)に陣営を移した。戴施は蔣幹の使者を止めて伝国の璽を求めた。劉猗は繆嵩を鄴にもどらせ幹に、「援兵は伝国の璽と引き替えである」ことを言う。
 幹はなおも東晋が救援しないのではないかと疑い、沈吟未だ決心がつかない。
六月、戴施は壮士百余人を帥いて鄴に入り、三台の守を助けさせた。蔣幹に紿(あざむ)いて曰く
「今、城の外は燕兵が取り囲んでいて、道路は塞がっている。そのために璽を未だ敢えて送ろうとしないのか。卿(あんた)、璽を出してわしに渡しなさい。わしは今まさに馳せて天子に申しあげよう。天子は璽がわしのところにあると聞けば、卿の至誠を信じて、必ずや沢山の兵糧を発(つかわ)し、もってここの窮状を救いましょう」と。
蔣幹はなるほどと思い、璽を取り出して彼に渡した。
戴施は、督護の何融に粮(かて)を迎えさせると宣言し、ひそかに璽を抱かせて枋頭に送らせた。
六月甲子(六日)、蔣幹は鋭卒五千および晋兵を帥いて出戦した。慕容評はこれを大破し、斬首四千級を得た。蔣幹は脱走して鄴に入城した。
 
 
 永和八年(352)八月、庚午 (十三日)、魏の長水校尉である馬願等が、鄴城(ぎょうじょう)の城門を開いて燕軍(燕国、鮮卑族慕容氏)を入れた。戴施に蔣幹は縄梯子を伝って城外にのがれ、倉垣に逃亡した。


 慕容評は魏后(冉閔の妻)董氏、太子の冉智、申鐘、司空の条枚等および乗輿、服御を薊(けい。北京市)に送った。魏の尚書令の王簡、左僕射の張乾、右僕射の郎肅らはみな自殺した。
 燕王の慕容儁(ぼようしゅん)は欺いて宣言した。
「董氏は伝国の璽を得てこれをわが燕国に献上した」と。
 そして董氏に「奉璽君」の号を賜った。………。
 
 東晋の謝尚は枋頭より伝国の璽を迎え、建康(現、南京市)に至る。百僚はことごとく賀(いわ)う。
    以上、史料は資治通鑒より拙訳。
 
 永和八年八月、冉閔の子、冉智、鄴をもって降る。督護の戴施、その伝国の璽を得てこれを送る。文に曰く「受天之命、皇帝壽昌」と。百僚ことごとく賀(いわ)う。
 九月、冉智、その将の馬願に捕えられるところとなり、慕容恪に降る。中軍将軍殷浩、衆を帥いて北伐するに、泗口にいたった。河南太守の戴施を遣わして石門に拠らせ、滎陽(けいよう)太守の劉遂に倉垣を戍(まも)らしむ。
注*国境警備のときには戍をおもに使っているようだ。