妖(もののけ)の涙――小説 玉璽物語2

      妖(もののけ)の涙小説 玉璽物語 2

私の棲家だった玉座は灰になった。董卓という粗野な男が西からやってきて、洛陽宮に火を放ったからである。私の数少ない友人である玉座の精は、依り代を失って気力が萎えてしまった。廃墟にひとしい宮殿の穴蔵に身を横たえ、一日の半ば以上は眠っていた。
「ねぇ、君。もとの玉座は灰になったけれど、必ず新しい玉座ができる。それまでの辛抱だ。元気をだしておくれ」
励ますと玉座の精は弱々しく頷いた。
「それでも、これが都かとおもうと……胸がつぶれそうだ」
玉座の精は両手で顔を覆って嗚咽した。
「ああ。きれいな都だった。董卓のような者には石ころ以外のなにものでもないけれど
 私はため息をついた。私はいつも、滅びゆくものどもに哀れを催した。そのものどもの背負ってきた重荷や、あるいは辿った道の険しさを推し量れば、涙がとめどもなく流れる。滅びるものはそれゆえに哀しく美しい。
そのときだった。白いものが私の視界を過ぎった。
「何者だ。おまえ――、おまえは人間ではない。この世の者ならぬ顔をしているぞ」
玉座の精を妖(もののけ)から守らねばと、自分が妖(もののけ)のくせに思わず私は背に佩びた剣を抜き放っていた。
「ああ、心配ない。玉璽の精だ」
 玉座の精が身を起こした。
「そうか、玉璽はめったに人前に顔をださないから、君たち初対面だね」
「知り合いだったのか」
 私は剣を収めた。
「そうさ。おまえこそ何者だ。そこで何をしている」
 今度は玉璽の精が私に噛みついた。
「私はじ鳥、趙英媛という者だ、妖(もののけ)の森から飛び出してきた」
「じ鳥は不吉な鳥だ」
 玉璽の精はじろじろ私をみた。
「その様子じゃ一族から追われたのだね」
「……」
 図星だ。私は答えない。身の上を語れば、存在を否定された屈辱と憤怒に五臓六腑から血を流すだろう。
「ずいぶん痩せたね」
 玉座の精は身をおこして玉璽の精にほほえみかけた。もう、それだけで、玉璽の精の目は涙でくもり、涙がすっと頬を伝う。おや、彼もまた私と同じ悲しみを抱えているらしい。
 玉璽の精が動くと白い衣から光がさした。月の光のように冴え冴えと白く清らかな光だった。ところが横向きになると碧色の光が射した。おや、これは。
「ねぇ、玉璽」
 思わず私は玉璽の精の肩を叩いていた。
 私の無礼な振る舞いに玉璽の精は眉をしかめた。無理もない、深窓育ちというかいつも箱におさまっていたから。そのとき、玉璽の精の体から碧の光があふれだした。
「失礼。君は白玉で出来ていると聞いたが、そうじゃないね」
「藍田生まれの白玉だといわれているが」
「そこだよ、そこ。いいかい。藍田というところはね、西域からの物産が集まる土地だよ。見たことがあるかい。駱駝に乗った紫髯(しぜん)緑眼の胡人の隊商は、玉門関をぬけて藍田を通る」
「……」
「西域の于闐(うてん)国の玉も藍田に集まるわけさ」
「私は于闐から来たのか?」
「何も思い出せないのか?」
「……思い出せない」
 哀しげに玉璽の精はかぶりをふる。
「和()氏の璧を削って作ったともいわれておる」
 なおも私は畳みかける。
「趙姐さん。私たちはそれぞれの依り代(しろ)が集まったものだ。だから、伝国の玉璽は一つではなかったと考えたら辻褄があう」
 玉座の精が口をはさんだ。
「……なるほど。そうかそういうことか」
 玉座の精の言葉は説得力がある。
始皇帝が作った玉璽はなるほど漢に伝わったが、王莽が殺されたときに失われたと考えるべきだ。すると辻褄があうじゃないか?」
 「そうかもしれないね」
 私は遠い昔の記憶をまさぐる。
「貪ってはなりませぬぞ」といましめられ、秦の宝物庫を封印して劉邦は西楚の覇王、項羽の到着を待った。項羽秦帝国の財宝をのこらず掌中に収めた。和氏の璧項羽の寵姫、虞美人を喜ばせたのかもしれない。
 漢朝に伝えられた伝国の璽は王莽の手に渡った。王莽は漢室から譲りを受けたと称して新王朝をたてた。
 
  続く
注*じ鳥のじは次の下に鳥という字を組み合わせた文字です。