妖(もののけ)の涙――小説 玉璽物語 4

妖(もののけ)の涙――小説 玉璽物語 4

炎がそこまで迫っているのに王莽は、天文郎に星を占わせていた。なんとお馬鹿な王莽。わが一族が王莽の血肉を求めて乱舞しているのが見えないのか。心を落ち着けて耳を澄ませば、「滅べ、滅べ」と騒ぐ声が聞こえたはず、公孫を失った私の怒りは王莽に向けられた。
天の加護といえばこれほど素晴らしい加護はない。王莽の一門は、元帝の皇后を出したために栄耀栄華を手にいれた。それまでは、まことに見栄えがしない一族だった。
王莽は星を占わせると北斗の柄の部分にあたるように、座席をぐるりと回して座った。
「天は予のために徳を生じた。漢兵は予をどうすることもできない」
  吠えるような声をあげた。
怪しげな神やいかがわしい道士の言葉を鵜呑みにする男である。心底から加護があると信じたのだろう。私は一族とともに大声で笑った。一族の乾いた笑い声が前殿を揺るがせた。食事も喉に通らないからだろう。王莽の吠え声は嗄れていて、息も少しみだれている。
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        漢の長安 平凡社「アジア歴史地図集」より
 
王莽の暦の十月三日。
日が昇った。群臣に腋を支えられた王莽は、前殿の南の階段をおりた。西へ向かい白虎門を出た。門の外で和新公の王揖が車を用意して待っていた。その車で王莽は、建章宮の北にある漸台へ向かった。
建章宮の北といったが、数年前に王莽は建章宮を毀して、その柱や材木で新王朝の廟を造った。
あのとき、私は鳥(しちょう)の群れに交じり王莽を追った。私の目は血走り、人の姿は次第に鳥へと変わっていく。嘴が伸びて鋭く尖り、伸びた爪は鉄の爪と化した。愛しい公孫の復讐に燃える妖(もののけ)そのものだった。もはや、虞帝の匕首など怖くはない。愛しい者に殉じて灰になるなら本望だ。
群れなす妖(もののけ)どもの不吉な羽ばたきが北の方、太掖池へ移っていく。白んだ地上に黒い影を投げかけながら。枯れ草に埋もれた建章宮の広大な土台が、巨人の骸のように横たわっていた。その北の太掖池の中に天にも届けとばかりそびえる高楼がある。それが漸台だ。高さは二十余丈(およそ46.2m強)、土台はいつも水に浸かっていた。「ひたる。ひたす。つかる」という意味を持つ『浸』と同じ意味の『漸』を楼名にあて、『漸台』と名づけた。漸台は「水につかるうてな」という意味をもつ。


なにゆえに王莽は漸台へ。
五行で漢は火である。火に勝つのは水、漸台は大きな水たまりの中にある、水の力で更始帝の漢兵に勝とうとした。
王莽の一行は呪いの札や威斗を持って漸台へと進む。このとき、王莽につき従うものはまだ千余人もいた。
(もののけ)どもは一斉にあざ笑った。護符など利かぬ。
「け、け、けっ。あれが威斗(いと)だとよ」
(いなご)のように空をおおうせん鳥があざ笑った。
「ちっとも効きやしねぇ。北斗七星の形をしとるが、それがどうしたのさ」
「お笑いだ。五色の薬石と銅を鍛錬して作ったのさ」
「信じてやがる。あれですべてを護れると」
せん鳥どもはぎゃあー、ぎゃあーうるさい。
 
長さ二尺五寸(およそ57.75cm)の威斗を背負った従者が王莽の車を先導していた。せん鳥族が現れたからにはどちらが王莽の魂をさらうのか、わがじ鳥族と激しい競り合いがはじまる。 人が死ねば、魂は天にのぼり魄(はく)は滅ぶべき肉体とともに地にとどまる。天にのぼる王莽の魂を捕らえて、ひとかけらも余すことなく食らい尽くさねばならぬ。悪人の転生を阻まねばならぬ。
 
漢の兵士が宮中になだれ込んだ。
「反逆者、王莽はどこだ」
目をぎらつかせた兵士が口々に叫んだ。
略奪を懼れた後宮の美人が部屋から顔をだした。
「ここにはおりませぬ、漸台でございますよ」
「なに。漸台か」
漢の兵士は王莽を追った。
 
漢軍は漸台を包囲すること百重、台上の弩(いしゆみ)から矢が雨のように降った。地上からも弩で応戦する。大気がふるえ、私の翼は風にはためく旗のように揺れ動いた。やがて台上の矢が尽きた。楯に身を潜めていた漢兵がとびだし、いたるところで刀剣の刃と刃がぶつかりあった。王莽は部屋に入った。
下晡(かほ)になると漢兵が台上に押し寄せた。
 
「王莽はどこだ」
「反逆者の王莽、出て来やがれ」
叫び声がしだいに近づく。
 これほど胸が高鳴る時があろうか。私は眼を光らせ王莽を見守った。王莽の側近の多くが台上で死んだ。王莽の最後はあっけなかった。商人の杜呉という男が王莽を殺した。そして印の紐を奪ってしまった。恨みがましく滅びゆく肉体を眺めている王莽の魂を、わが一族はとりまいた。せん鳥族が割り込んできて王莽の魂をつつく。われら妖(もののけ)は獲物をめぐって争い始めた。
 ふと、醒めた目で私は人間どもを眺めた。
杜呉はうれしそうに印の紐を肩にかけていた。それを得意げに校尉の公賓就に差し出した。公賓就はもと大行治禮だったので、その印の紐をみて「これは玉璽の袋の紐だ」と、ぴんときた。
 「その紐の主はどこだ」
 はやる心を抑えて公賓就がたずねた。
「部屋のなかの西北のすみっこに斃れています」
 杜呉が答えた。
聞くなり就は部屋へと急いだ。そして西北の隅の青色の衣をまとった屍の顔を改める。
「おお、まさしく王莽だ」
公賓就は王莽の顔を知っていた、あわてて王莽の首を斬った。そのとき、血眼の漢兵たちが王莽の屍に殺到して、恩賞目当てに王莽の体を斬り裂き、切り取った。ああ、なんたること……私は思わずわが目を覆った。目の前で繰り広げられた光景は妖(もののけ)を凌いであまりあった。なにしろ「われこそは王莽をとらえて出世せん」と意気込む猛者が七百余人もいた。七百余人に分けるには屍はあまりにも小さすぎた。王莽の屍を切り節々を解き、千々に切り刻んで自分たちのものにしたが、それでも足りない。屍をうばいあって互いに殺し合いまではじめた。
公賓就は王莽の首と玉璽を王憲に届けた。王憲はもと弘農掾だったが、漢兵が長安にせまったとき、臨時に校尉になった。長安入城を果たしてからは漢の大将軍を自称した。長安城中の兵数十万はみな王憲に属していたから、この成り上がり者は急に態度が横柄になった。
私は一目で王憲がならず者であることを見抜いていた。


  続く

せん鳥のせんは詹+鳥という字です。
じ鳥のじは次の下に鳥をつけた字です。