妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 五
私の予感は当たった。なんと愚かな男だろう。けれどもこのような種類の男は多い。
王憲は不遜にも東宮を宿舎にした。城を制圧した指揮官は、まず府庫の封鎖を命じて帳簿につけさせ財宝を略奪から護らねばならない。潔癖な所を宣伝しておくのだ。そして上官の指示を待つ。これが朋輩の妬みやお上の疑いを避け、身の安泰につながるのだ。
王憲は王莽の後宮を独り占めした。後宮のきれいどころはまずは更始帝のものである。賞味するなどもってのほかだ。更始帝は武将たちに恩賞としてこのきれいどころを分配するだろう。
王憲は天子の衣をまとい天子の乗り物に乗った。まるで皇帝だ。王憲にひれ伏す衆人は、漢の威光にひれ伏しているのに、王憲は自分にひれ伏していると勘違いしたらしい。
王莽の暦の十月六日、王憲より格が上の李松や鄧曄(とうよう)が長安に入った。少し遅れたが将軍の趙萌や申屠建もまた長安に入った。数十万の兵が自分に服従していると勘違いした王憲は、玉璽を返さなかった。後宮の女たちのやわ肌におぼれ、出入りに天子の旗を建てた車をつかい、天子の鼓を威勢よく鳴らした。
諸将は呆れた。おまえを皇帝にするために戦ったのではない、わしらは漢の更始帝のために戦ったのだ。
王憲は収監されて斬られた。
王憲が斬られた瞬間、頭上から白い髑髏が転がり落ち、見慣れた鳥の頭が現れた。おや、あれは……、私はかっと目を見開いた。彼の体の青い鳥の羽毛が一つ二つと抜け落ちて、はらはらと空に舞った。あっ、せん鳥一族の羽……。春の雪のように羽毛は一瞬にして空に溶けた。
金の粉をふりまいたような月夜、長平の髑髏の山で私に話しかけたせんの若者の顔が蘇る。ああ、あいつの野望は束の間だが叶えられたのだ。いまわの際に、あいつは私を見て「けたけた」と笑った。人間には聞こえやしないが妖(もののけ)には聞こえるのさ。「また会おうぜ」と、そう言っていた。
妖(もののけ)は死んでも妖気が集まるところなら再生することができる。きっとあのせん鳥は蘇り、どこかでまた私と出逢いそうな気がする。
王莽の首と玉璽は宛(現、河南省南陽市)にいた漢室の血をひく劉玄という男のもとに送られた。私が覚えている更始帝と呼ばれた劉玄は、やたらと威勢はよいが猜疑心のかたまりだった。流星のように夜空を彩って消えたが、次に現れた光武帝という強烈な光を放つ星を前にしてはすぐに忘れられてしまった。
「ねぇ、藍田白よ」
私は玉璽の精に呼びかける。玉璽の精は頭を抱えて俯いていた。私にはそれが、玉璽がうけた数々の屈辱に涙を流しているように思えた。玉璽の精の光を集めて輝く清らかな貌も、一皮剥けば権謀術数の垢にまみれた醜い顔が現れるのかもしれない。はっと私は思い当たった。玉座も玉璽もやはり私と同じ妖(もののけ)の仲間だったと。
「……自分で自分がわからない。私は尊いのかそれとも卑しいのか……」
玉璽の精の言葉に慌てたのは玉座の精だった。
「君は尊い。尊ばれて当然さ。玉璽なのだよ。帝王の印だ」
玉座の精の言葉は熱がこもった。私は心の中でせせら笑う。玉璽が卑しければ玉座も卑しい。この妖(もののけ)どもは一心同体も同じだ。しかも、妖であることを毛ほども悟っていない。
「すぐに思い出すわ。君は王憲というさもしい男のものになった。すぐに王憲は処刑され、李松が君を漢の更始帝に届けた」
「天の恩寵は去った。私は輝きを失い……」
「少しは思い出したのね。安心していいのよ。更始帝は赤眉の賊と戦って敗れ、殺されてしまった。そのとき君は赤眉のものになり、赤眉が漢の劉秀(光武帝)に降伏したとき、君は漢室に戻ることができたのだから」
私は玉璽の精に気休めを言ってしまった。
呪いや符瑞ばかり信じていた王莽が、天下統一なってわずか十年で滅んだ秦の玉璽を、不吉だと思わなかったのが不思議でならない。平帝の皇后に立てた王莽の娘が、はじめての月の物を迎えたとき、王莽は太子や公主の誕生を願い、子谷と午谷を結ぶ子午道を開いたくらいだから。
「ねぇ。王莽の性質から推し量ると、きっと王莽の千年王国のために新しい玉璽を作ったにちがいないと思う」
王莽が殺されたとき、どさくさに紛れて秦から伝わった玉璽はすり替わったのではあるまいかと、疑念を口にしてみたが、玉璽の精は無表情だった。玉璽の紐をみて、公賓就は伝国の玉璽だと思った。けれども、それは果たして秦の始皇帝の玉璽なのかどうか……。
「趙姐さん、何百年も昔のことだ、そっとしておいておやりよ。田白は玉璽というものの魂だ。月光石でできていようが、藍田の白玉だろうが関係ないさ。ほら、寒さに震えている」
「魂も寒さに震えるの?」
彼の体はこの都の城南の井戸に沈んでいる」
悲しそうに玉座が首をふった。その言葉に、とめどもなく玉座の精は涙を流すのである。
あれから百数十年の歳月がながれた。董卓が漢室の実権を握り、幼い皇帝を擁立した。この暴挙に漢室を守れと義兵が起こった。おそれた董卓は長安に遷都してしまった。侍中は玉璽が董卓の手に渡るのをおそれた。そこで玉璽を宮女に託した。宮女は玉璽の箱を首にかけて甄官(けんかん)の井戸に身を投げた。暗くて冷たい水の中で、藍田白は外へ出たくて泣いているのだという。
「おかしな話……、なぜ? なぜ、宮女が玉璽を守らねばならないの?」
「とっさのことだった。宮女は兵士の略奪をみて、絶望して井戸に身を投げた」
「どこかに埋めておけばよかったのに。そのときの侍中の名前、史官は記すのを忘れているけれど、わざと記さなかったのではないかしら。宮女の首に玉璽の箱をかけて、井戸に投げ込んだのではなかったのかしら?」
「どこかへ埋めるつもりで城南まできたのだ」
「間に合わなかったわけね」
「間に合わなかった、遅すぎた」
玉璽の精はすすり泣いた。
「董卓の奴、少帝は愚か者だと言いふらして廃した。その弟を立てたのは、幼い皇帝なら自分の言いなりになるからさ。そのうえに擁立の恩を売れる。愚か者ではなかったよ、少帝は。内気な所があったけれど」
玉座の精の言葉に私は幾度となく頷いた。
「君はそういうことを沢山見てきたのね……悲しくて重いことばかりを」
玉座の精は唇を噛み、身を震わせた。
真実がねじ曲げられるのを幾度も目撃したのだ。彼もまた妖(もののけ)に違いないが、人間よりもはるかに無垢だ。そんな哀しい目をして生きながらえて……死ねない身が辛かったにちがいない。
「君は妖(もののけ)でし鳥族なのに、どうして私たちの哀しみを、まるで自分の哀しみのように感じるのだね」
「……わからない」
今度は私がかぶりをふる番だ。
「亡国の妖鳥一族のなかの異端者か……」
玉座の精がやわらかな笑顔をむけた。素直に私はこくりと頷く。
「なぜ、長安に行かないのか」と、問われたら、玉座の精は「玉璽のない天子だから」と、答えるだろう。権威を失った天子に玉座はふさわしくない。玉座の精は絶大な力を持つ帝王の出現を待っていたのだ。
「でも、けなげな心をお持ちだよ」
本音が知りたくて水をむけてみたが、かれらの表情は冷たい。
「けなげだけでやっていけるものかね。罪作りなだけだ」
玉座は冷然と言い放った。
続く