妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 七
袁紹の従兄弟に袁術という者がいた。任侠である。人好きがした。だが、袁紹を妬み、彼への闘争心むきだしだった。袁術は南陽(河南省南陽市)によっていた。南陽は大郡である、戸口は多く豊かな郡である。その袁術配下の武将に孫堅という者がいた。江南の出で、度胸があって戦がうまい。それが董卓配下の武将にいったんは破れたものの、次にはうちまかして洛陽を攻め、占拠してしまった。
人間というものはやっかいだ。人の形をした皮肉のなかに広大な世界があって、善悪はもちろんのこともろもろの愛憎をすまわせている。単純なわが種族の比ではない。
孫堅が雒陽を占拠できたのは、董卓の武将たちの事情が大いにものを言った。
孫堅は汝水のほとり、梁県の東に屯営を移していた。そこで董卓の武将、徐栄に討たれ、堅の衆はちりぢりになった。なにしろ徐栄はこわもての猛将で、頭も切れる。この男には曹操がさんざんな目に遭っている。
敗れた孫堅は西北の陽人聚に走り、そこに本陣をおいて散った兵士を拾っていった。
董卓は黄巾の乱での孫堅の戦いぶりを知っていた。敵には良い将は不要だ。息の根を止めねばならない。東郡太守の胡軫に歩兵と騎兵あわせて五千を指揮させ、孫堅を撃たせた。この騎兵を指揮していたのが呂布だ。呂布と胡軫は仲が悪い。しかも呂布は胡軫の総指揮に従わねばならない。面白くないので呂布はここぞというとき、出撃を遅らせた。そのため胡軫は陽人聚で敗北した。武将の足の引っ張り合いで死んだ兵卒を思うと胸が痛い。人は軽かった、せん鳥の若者の羽根より軽い。
足の引っ張り合いは董卓の武将だけではない。袁術の配下にありながら、孫堅もまた袁術の兵糧攻めに苦しんだ。ある者が袁術に知恵を付けたからだ。
もともと猜疑心と嫉妬心が強い袁術は、孫堅の野心を疑った。雒陽で孫堅が自立してしまえば、袁術の当面の敵は孫堅だ。敵を養う馬鹿はいない。袁術は兵糧を送らなかった。飢えた孫堅は夜陰にまぎれて袁術のもとに駆けつけ至誠を説いた。疑念が晴れた袁術はすぐさま兵糧を運ばせた。この兵糧が届かなかったら、飢えた孫堅の兵が力を発揮できたかどうか怪しいものだ。
「田玉よ。君は雒陽を出てどこへ行く。この都ほど君にふさわしいものはないのに。まさか長安へ……」
「私は冷たくて暗いところから陽が躍る明るみに出るのだ。飽き飽きしたのだ、冷たい所に閉じこめられたまま過ごすのは」
「長安へは行かないよ。私も玉璽の精と一緒に行くことにした。どこだってよい。人がたくさん集まるところを都会という。都会には都ができるものさ」
彼らは顔をみあわせてにこりと笑った。
「その日は近いの?」
「ああ。足音が聞こえる」
「足音?」
だれの足音だろう。玉璽の精の目は遠くをみつめていた。
「人恋しい。人がいないと死にそうだ」
「壮士のなかの壮士だと見た。私はその男に身を寄せよう」
玉璽の精の目は迷いがない。
彼らが耳をそばだてて聞く足音とは一体だれの足音だろう。多分、あの男ではなかろうか? 私は春の空を仰いだ。春の嵐、黄塵は止んでいた。やわらかな空の色と輝く白雲、雲と戯れるのもよい。私は両手を広げ春風に身をまかせた。
董卓の陣屋が騒々しい。董卓がわめき散らしていた。李傕(りかく)が董卓のまえで叩頭している。
「なに、餌に食い付かないとな。呉の田舎者め。一族郎党、刺史や太守にしてやろうというのに」
「はっ。あ奴、『わしは大義によって動いている。不義をはたらくてめえらをひっ捕らえ、三族皆殺しにして天下に謝罪する』とほざいております」
「義とな、本気でか?」
「まずは本気でしょうな」
「義など飯の種ではないか。飯にありつくために義を唱えよるがのう、食えない義など何の役に立つ」
「左様で。あの男は義に突き動かされての行いだとまくしたて、栄耀栄華を蹴飛ばしました」
「わけがわからん。男に生まれたからにゃ出世と名誉が第一。出世すりゃ金回りはよくなる、うまいものは食える。まぶしい御殿に錦の衣。両の手に天下の美女よ。美酒に酔い、夜毎にかわる諸国の美姫のやわ肌は栄華の妙味だ。それを蹴るとはのう」
董卓はせわしなく舌打ちを続けた。
なるほど、董卓らしい。思わず私は笑った。
土煙をあげて早馬が本陣にかけつけ告げた。
「孫堅が兵を率いて大谷関に迫っております」
大谷から雒陽までの距離は九十里(25キロ弱)。
「ぬ、ぬぬ、ぬっ。呉の小童(こわっぱ)がやりおる。だが、これまでだ。董卓さまの力を見せてやろう。震えろ、呉の小童。二度と大口叩けぬよう舌を切ってやる」
董卓が熊のように咆哮した。
この男、吠え癖がある。手に負えない事態がおきると吠える。吠えられると相手はひるむ。ひるんで屈服する。これが董卓の人心操縦の術だ。複雑な府寺の仕事などわからぬ。わからぬゆえに、吠えて脅す。見せしめに一人二人を残酷なやり方で殺してみる。すると靡かぬ者はない。巷間にざらにいる嫌な奴だ。だが董卓は、そのようにして董卓という人間をつくりあげ、人心を操った。
孫堅という男は面白い。侠気の人だ。だからといって潔癖で一辺倒でもない。彼の配下は恩賞目当てで兵士になったものが多い。ゆえにたえず恩賞を心がけてやらねばならないのだ。軍が通過した土地は略奪に悩むが、孫堅の軍隊もまた略奪とは無縁ではなかった。
部下は一兵卒にいたるまでいたわった。兵士は恩義に感じた、この男のためになら死をも厭わないと思うのだ。ある意味、袁紹とならぶ「危ない男」である。けれど酷薄な将軍のもとで、将軍の楯になって命を落とすことを思えば、孫堅のような情熱的な男のために死ぬほうがましかもしれない。度胸と決断力があって義侠心が厚く、やたらと戦に強いときたら、身を寄せるなら孫堅となるのは人情と見た。
董卓は軍を率いて大谷関に向かった。大谷関の北の、皇帝陵が並ぶ原で董卓は孫堅と戦った。そして董卓は敗れた。董卓は西へと奔り澠池に屯営をおくと陝の地の兵を招集した。孫堅は雒陽へと進み、雒陽で呂布と戦った。猛将呂布は敗走した。雒陽を占拠した孫堅は荒廃した帝陵を修復し、漢の宗廟を掃除して祀った。
「とうとう来たね」
「ああ。やっと来たよ」
「待ち焦がれた時が来たのだよ。輝くのだ、光を放て」
「輝くよ。光るよ。私はこの世ならぬ光を放つ」
いうが早いか玉璽の精は私と玉座の精のまえから姿をけした。
「とうとう君と別れる時が来たのね」
「ああ」
「寂しくなる。洛神はご存知かしら」
数百年来の知己との別れは心が滅入る。次にあったとき、彼らは私を覚えているだろうか? 別の顔したよそよそしい玉璽の精がいそうな気がして俯いた。
「洛神は眠っている。かように美しい山河に囲まれた土地だ、いずれだれかが都を築くだろう。そのとき洛神は目覚める。私たちはここに戻ってくる」
玉座の精は私の眼前からかき消えた。
「これは……伝国の玉璽ではないか」
孫堅はこの玉璽を袁術に差し出さなかった。妻の呉氏のもとにおくり、秘蔵したのである。それを知った袁術は堅の妻、呉氏を捕えて奪った。