妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 八

   妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 八
 
 月に誘われたのか胡笳(こか)の音が流れた。
胡笳の音はなぜこんなにも哀しいのだろう。そう、あれは人煙まれな砂漠を旅する者が、人恋しくて寂しくて人を求めて叫ぶ心そのものだから、哀しくて寂しい音色なのだ。月が美しい夜の孤独な音色……ああ、長平の荒野を思い出す。趙と秦が天下争いをしたあの長平の古戦場は、数百年をへてなお白い髑髏が散乱している。女神が紡ぐ「時の布」を手繰り寄せるかわりに私は、とうとうと天空を流れる河、あの天漢のような想い出の河に身をおいた。長平の戦場にこそ胡笳は似合う。けれど胡笳は匈奴の間に起こった楽器ゆえ、あのとき長平に響いたのは兵鼓の音だった。
兵鼓がやんだ戦場には愛しい者たちを失った女たちの叫びが沸き起こった。わが鳥の一族は血の饗宴に狂喜乱舞したが、喜ぶ気にはなれず私はなぜか死肉を喰らう仲間から顔を背けていた。一族の長老は私を殺すにしのびず私を追放した。それからというもの孤独が私の友となった。
「胡笳よ、私を泣かせないでおくれ。想い出すのだよ」
私は衣の袖で目頭をおさえた。そのとき、杏のこずえが震えた。
「私の腕を濡らしたのは夜露かと思ったら、趙姐さんの涙だ。胡笳の音なら夜な夜な流れてくるよ」
 花ざかりの杏の樹が言った。
「杏姐さん。胡笳はいつから聞こえだしたの?」
「ずいぶんと前からだね。自由に動ける趙姐さんなら何でも知っているでしょうよ。烏の黒衣郎が言うには、匈奴(きょうど)の南単于とかいうおふらの一味がそこかしこにいてさ、退屈しのぎに烏まで弓で射ると嘆いていたわ」
「ああ、於夫羅(おふら)のことですね」
 私は笑いながら頷く。黒衣郎は数百歳を生きる烏の長(おさ)で、休まずに数百里を飛ぶことができたから見聞が広い。木々たちに見知らぬ国の話をしてやるので人気があった。中原に匈奴はいなかったはずだ、それが匈奴の弓に黒衣郎が怖れをなすとは天地がひっくりかえったような驚きだ。
 
 遠い昔、まだわが『じ鳥(じちょう)』一族の長が若者だった頃のことである。長は冒険が好きだった。凶兆のない土地を飛んではいけない掟を破り、世界を飛び回った。おかげで長が飛ぶところ流血の惨事が起きた。長は収監され風と砂と草原の国に流された。
あれはのう……と、長は遠い目をした。
「飛べども飛べども塀のような青い山並みは尽きないのじゃ。西に沈む夕日を来る日も来る日も追いかけた。飛びすぎて羽がだるうなる。そんなときは鳶のように風に乗って力を損なわぬよう気をつけた。山の端までたどり着きたかったからだ。その山は陰山という」
「陰山というのですか? 何日も飛びつづけないと山の終わりに行けないのですか?」
幼い私はみたこともない陰山を想像できない。その陰山には切れ目があって、ちょうど都の宮門のようなあんばいに高くそびえているという。そこを高い闕(もん)の意味から高闕(こうけつ)と名付けて、要塞が置かれているのだという。
「ああ。遊牧と狩猟をなりわいにする人間には陰山は宝の山だよ、山はかならず獲物を与えてくれるからのう。肉は腹をみたし皮は服を作るし市で売る」
長は私たちに中国の北の土地を語ってくれた。そこのある部族は金色の髪に青い目をしているといった。黒い髪と黒い目しか見たことがない私は、駱駝の骸(むくろ)の側でなかば沙埋もれた玻璃(はり)の青い器を思い出して、青い目というものを想像した。玻璃の青い器は冷たい水を想像させたが、青い目は笑ったり怒ったり泣いたりするのだろうか?
 
 長の話によると、中国という国は時を経るごとに異民族を追い払って領土を広げてきたという。あおりを食らったのはこの国の周辺に住んでいた胡(えびす)である。胡は時によってさまざまな名でよばれた。周という王朝のとき雒陽(らくよう)の周辺に戎(えびす)が住んでいたし、周の王室は戎から王妃を迎えている。
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 内モンゴル・オルドス九原城遺跡
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 内モンゴル・パオトウ(包頭)市 戦国趙の長城
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内モンゴル・オルドス市の大草原 かって、幾多の遊牧騎馬の民の牧草地だった所。
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          内モンゴル・フフホト市の戦国趙の長城

 匈奴冒頓単于(ぼくとつぜんう)という英雄が現れたころ、中国の北方にすむ遊牧騎馬民族のうち、もっとも勢力をはったのは東胡だ。匈奴の居住地の東方には東胡がいて、西には月氏がいて最盛期にあった。冒頓単于はこの月氏を撃った。月氏は恐れて遠くに去った。次に東の東胡を撃って遠くに退け、南の遊牧民を撃ち強大な匈奴の王国を築いた。時に中国では秦の始皇帝の時代である。
天下を統一した秦の始皇帝匈奴の侵入を防ぐために万里の長城を築き、匈奴を撃ってその土地を奪った。始皇帝崩御すると秦帝国は争乱に見舞われた。すると長城や要塞を護っていた秦の兵士が、役務を嫌って匈奴の国に逃げてしまった。中国が混乱したすきに匈奴は秦に奪われた土地を取り戻して強大となり、しばしば中国の要塞を掠めて食糧や家畜、民を奪った。
匈奴の侵攻に手を焼いた漢の高祖劉邦は、匈奴討伐のために大軍を率いて出征し、平城(山西省大同市)まで行ったが、白登の岡で匈奴冒頓単于の大軍に囲まれること七日、糧道を絶たれてしまった。時に大雪、高祖は困窮した。また漢の歩兵は高祖に追いついたものの匈奴の包囲網が破れない。高祖劉邦は陳平の策にしたがい、単于の閼氏(あっし)に賄賂を贈って包囲の一角を解いてもらい、漢の兵士は弓を引き絞って空にむけ匈奴兵の囲みを脱出した。囲みの一角を解いてもらうに当たって漢朝は、決して口外できぬ屈辱を呑んだといわれ、このことは漢朝の秘密とされる。
匈奴と漢は和親と交戦を繰り返したが、やがて武帝に討たれ領土を奪われ衰えて行った。運が悪いことに匈奴の地に干ばつと蝗虫(いなご)が襲い、家畜は斃れ増えなかった。匈奴に内紛がおこり南北に分裂してしまう。
南匈奴は漢に降り漢の保護のもと西河郡に入り、単于庭を西河郡の美稷(びしょく)においた。
人界の漢の暦の中平中(184~189)、まだ霊帝が健在だったとき、
匈奴は漢の要請をうけて頻繁に兵を出さねばならなかった。匈奴の国人は怒り、反乱を起こして南単于を殺してしまった。
単于の子である於夫羅は正統な世継ぎであるが、国人は須卜を単于に立てた。出征していた於夫羅はこのことを知り、朝廷に訴えようと都にきたが、霊帝崩御したばかりで、朝廷はこのことを取り上げる暇がなかった。
於夫羅は帰るべき故郷を失いこの国にとどまっていた。漢の乱れに、いったんは討たれて息をひそめていた黄巾の残党が各地で勢いを盛り返して郡県を攻めていた。於夫羅は河西の白波谷に起こった黄巾の賊と合流し、幷州部の太原郡を攻めて并州刺史を殺し、さらに南下して司隷校尉部の河東郡を荒らした。河東郡から黄河にそって東に進み、河内郡まで荒らした。これが中原に匈奴があらわれた理由だ。
 於夫羅はさまよえる匈奴の長だった。
 

注*白波谷
 『百度百科』によれば山西省襄汾県永固郷だそうだ。於夫羅が白波の賊に合流したのは幷州刺史部という同郷のよしみからだろう。郷里を同じくする者同士は助けあうというのが当時の習慣である。
注*西河郡・美稷(びしょく)
  冒頓単于の時の単于庭はモンゴルのウランバートル。
  
なお、写真はすべてグーグルマップより引用
続く