わたしに孔明あるは、魚が水を得たも同然である 劉備と諸葛亮

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左から順番に三国時代荊州(けいしゅう)の地図(中国歴史地図集 三聯書店)
水経注図
水経注図
水経注図(大阪市中之島図書館蔵 清代のものだと思うが忘れてしまった )

孔明は若いころから大志を秘めていた。
孔明の青春は、夢見ることについやされた。
塾の同輩たちが寸暇を惜しんで、せっせと孔子の言葉を一字一句暗誦(あんしょう)する姿を横目でちらりと眺めやり、孔明は朝となく夜となく、膝をかかえてうそぶいていた。

うそぶくとは、口をすぼめてすーつっとできるだけ長く息をはくことだという。その息の長さがその人物が凡人か非凡なる人物かを計る物差しにもなっていたらしいから、現代の感覚では理解しがたい。
深山でうそぶけば、そのうそぶきが山々にこだましたので、「ああ、仙人だ」と跡を追うと風のように山中に姿をくらましたという類の話は数々ある。

「まあ、君たちは将来、二千石(にせんせき)か太守になれるだろうさ」
と、学問にはげむ朋輩たちにいう。
二千石は祿高で、月々支給される穀物の量と布帛の数によって三階級に分かれている。二千石(にせんせき)も太守もなかなかなれるものではない。なれば故郷に錦を飾る類のものだ。

「じゃあ、君はいったい何になるつもりだい?」
塾生たちが聞く。
すると孔明はにやにや笑って答えない。
「あいつ、一体何になるつもりだ」
塾生たちには孔明の将来は謎だった。
「図体ばかりでっかくて、暇さえあったらうそぶいとるわい」
と、内心嘲笑っていただろう。

おれは管仲になりたい。楽毅になりたい。いや、おれは管仲だ! 楽毅だ!
「わしは管仲楽毅じゃぞ」
そう宣言したことがあった。
だが、だれもがそんな器量の男かよと、軽くいなしたものだった。
「おお、孔明はたしかに管仲楽毅と呼ぶにふさわしい器量だ」
と認めた者はたった二人しかいなかった。


徐庶という男が劉備に熱心に孔明を推薦し、その結果、三顧の礼でもって孔明劉備に仕えるのである。
そのとき、劉備につく衆は心細いくらい少なかった。
孔明の策で、戸籍を偽っている者たちに正しい戸籍につくらせた。その結果、劉備の衆は数十倍に膨らみ、ようやく将軍らしい体裁が整ったものである。

注*数百年後には、これらは「陰戸(いんこ)」と呼ばれた。使役や税をのがれるために一人の戸主  のなかに数十家族が属する。ひどい場合には数百家族が属した。使役に駆り出されるのは一戸  当たり一人か二人、戦時でも三人くらいだ。民もなかなか上手に抵抗する。

さて、曹操に攻撃に参った劉備は、呉の孫権に出兵を依頼する。その使者が孔明である。
孫権劉備の使者である諸葛孔明の才にほれ込んだ。
「その方、わしに仕えぬか」
水をむけたが、孔明はうまく断ってしまった。
弱小勢力だった劉備より、はるかに勢威ある孫権を袖にするとは、なんともったいない。
ある人がそっと孔明にたずねた。
「なぜお断りしたのですか?」
「なるほどあの方は私の才を愛してくださいましたが、私の心まで知ろうとはなさらなかった」
 士は己の志を知るもののために死す、である。

なるほど、孫権曹操をして「子を生むなら孫仲謀(権の字)だ」と言わしめた人物である。しかし、女性に関しても男性に関しても、疑心暗鬼が勝って、心の底から信頼するということが少ない。
謀反を疑われた臣下や、蜀から戻った使者が蜀の政治をほめたばかり殺されている。孔明も呉に仕えていたら、その優れた才気ゆえに孫権に脅威を与え、殺されていたかもしれない。

諸葛亮を得た劉備は「わたしに孔明があるのはまさに魚が水をえたようなものだ」と手放しに喜んでいる。
劉備孔明孔明を連発すると古くから仕える関羽張飛は面白くない。すると劉備関羽たちの気持を察してしこりを残さないように和解させる気配りまでするのだ。

臣下として仕えるならやはり、劉備のような人だろう。
人材の材は本来、財宝の財(たから)と同じ意味を持っている。人は財(たから)である。
その人材が使い捨て扱いされる今の世の中、士は己を知る人のために死すといえる社長に出合えるだろうか?

劉備諸葛亮の出会いを思うにつけ、「歴史がわたしたちに授ける知恵とはなにか?」と考えてしまう。