妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 九
妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 九
後漢(東漢)の冀州刺史部。右端が勃海郡 (三聯書店「中国歴史地図集」より)
杏姐さんが口をすぼめて品良く笑った。笑いながら身をよじったので杏の梢が揺れ、物思いに耽っていた私は枝から転げ落ちそうになった。人の姿をしていても鳥の本性は捨てられない。梢に腰かけていると心が落ち着く。
「杏姐さん、ずいぶんと難しいことをご存知ね」
「ふん。趙姐さん。わたしだってこの程度はわかるのよ。黒衣郎がしょっちゅう話して聞かすの」
それで、ぴんと来た。惚れっぽい杏姐さんは黒衣郎と恋仲らしい。まえは虹に叶わぬ恋をした。虹の恋人は美しいけれど杏姐さんの所にずっといるわけではなかった。今度の恋は順調らしい。いやに時世に詳しくなっている。
「韓馥は危ういよ」
「どうして?」
「冀州は大州、豊かな州でしょ。牧は刺史とお役目は同じ。刺史の権限は大きいわ。このようなご時世だから、だれ憚るものもない一国の主よ、まるで刺史は王様で州は王国のようなもの。ああ、惜しい。あの器量じゃ、もちこたえられるのかしら」
「正直なところ韓馥の名は知っているけど、人物はよくしらないのよ」
「あら、殘念。機会があったら見極めなくちゃ。趙姐さんだって上手に逃げないと匈奴の弓の的よ」
「弓の的。おお、怖い」
「わたしのいうことをよく聞いて。来年の花の頃、元気な姿をみせて欲しいからいうのよ。わたしたち、古なじみでしょ」
「うん。古なじみね。世間じゃ韓馥はひとかどの人物だという。努力していまの地位にまで這いあがった立派な男だ、とね。牧や刺史になれるのは一握りの者でしょ、望んでなれる地位じゃない。知っているのはそれだけよ」
「大した出世よ。なのにねぇ、天下の豪傑や人物が、みな袁紹の所に行ってしまうから妬んでいるの。あれは……すこしまえのこと、黒衣郎が見たのよ。匈奴の於夫羅が張楊という武将に連れられて袁紹に降伏したのよ。於夫羅というのがね、たいそう男振りがよいそうよ」
「金色の髪に空色の目。想像できないけど素敵よ。話をもとにもどしましよう。とにかく韓馥は妬んだ、それで義旗の盟主である袁紹におくる糧食を減らしたの」
「えっ、食糧を。やるわね」
「そう。食糧を、ね。食えなくなれば食糧を求めて衆は離散する、それが狙い」
「義旗のもとに集まった者同士なのに。これじゃ董卓を倒せない」
「ええ。おかしなことをするのね、人間は」
杏姐さんは眉をひそめてふっと吐息をつく。
錆びた声で烏が鳴いた。杏姐さんは頬を上気させ艶然と笑う。ああ、黒衣郎だとぴんと来た。
「よう、いつもあでやかだね」
黒衣郎は私に会釈して、杏の枝にとまり幹によりかかった。
「袁紹と韓馥とのいさかいは根が深いぜ」
烏の長だけあって物の言い方にも貫禄があった。
「まあ、根が深いのでございますの?」
杏姐さんはとびっきり上等の声をだした。
「州牧の顔色をうかがう立場ね。でも、太守のほうが大物すぎて釣り合いがとれない」
「そうさ。原因はそこにある。義兵が起こると韓馥の奴、しきりに空気を読みおった。要領の良い奴だぜ。董卓の顔色もうかがい、袁紹が兵をあげぬよう部下を勃海の郡役所へやって監視させおってのう。袁紹は恨みに恨んだ」
「そりゃそうでしょうね。袁紹って人は君子の模範だから、真っ先に義旗を靡かせたかったでしょうよ」
杏姐さんは杏の樹から抜け出して黒衣郎を見上げた。桃色の衣が姐さんの容色を一段とひきたてている。
黒衣郎は黒い羽衣を脱ぐと梢にかけた。いかにも精悍な顔つきの壮年が現れた。人の姿に変わっても黒衣郎は黒い胡服をまとっていた。黒衣郎は梢から飛び降り、杏姐さんに寄り添った。気を利かせて私はその場を離れた。
春の夜に胡笳の音が、ものみな泣けよと流れていく。胡笳ばかりか、この国の東北あたりの夷の言葉まで耳にした。おや、あの言葉は烏丸族ではないか? 東北の塞外にいるはずの夷が中原にまで入り込んでいる。国が乱れると言うことは、すべての秩序が崩壊することだ。田畑はうち捨てられ、人々はさすらった。そのつけが飢えだ。無数の鳥の群れが頭上を飛んでいく。なんと懐かしい羽ばたきだろう。その飛ぶところ国滅ぶといわれたわが『じ鳥』一族の羽ばたきだ。亡国の鳥が飛び交い、各地に武装した集団が拠っていた。乱れに乱れるのだわ、天下は。私は一族に見つからないように茂みに身を潜め、羽ばたきをやり過ごした。
本当に人間はおかしなことをする。勃海の兵を率いて西南へと進んだ袁紹は司隷の河内(かだい)郡に拠点をおいて董卓の勢力と対峙していた。対峙していたものの、董卓が怖いのである。舌戦は達者だがだれも本腰を入れて董卓と戦わなかった。
盟主の袁紹ですら心が揺らいでいた。あの幼い天子を見捨ててしまおうとしていたらしい。心は千々に乱れるのか、たまたま玉印を手に入れてので、五色の絹糸の紐で肘にくくりつけて悦に入っていた。事あるごとに玉印をくくりつけた手をあげるので、肘の印が露わとなる。一座の者たちの目はその玉印に集まる。それを喜ぶ者もおれば苦々しく思う者もいる。反応を楽しむというよりむしろ袁紹は、玉印にふさわしい男という評判を欲しがっているようだった。
「なんの真似かのう」
小柄な男が鼻に皺をよせてせせら笑った。
「おお、曹孟徳どのよ。じつはのう、重大な秘密だ」
袁紹は困ったように眉をひそめ、孟徳ににじり寄った。俳優(わざおぎ)さながらに優美な仕草だったので、思わず私は見とれてしまった。君子は容貌や所作まで美しくなければならぬと思われていたから、申し分ない士太夫の所作だ。君子の理想を具現した男の魅力を孟徳は毅然と弾き返した。
「秘密とは?」
「董卓が即位させてしまった幼い天子は先帝のお種じゃないのだ。生母の王美人、美人は入宮するまえにすでに懐妊していたらしい」
「……」
「ものは相談だが、宗室の年長で賢明なるお方に即位していただこうと思うのだよ」
「天子を董卓のもとからこちらにお迎えすることが筋だと思います。そのための義旗ではござらぬか? だれもが帝室に力添えせんものと立ち上がったのですぞ」
「くどいようだが、天子は先帝のお種ではない」
「初耳でございますな」
孟徳は語調を強め、袁紹をぐっと睨みつけた。
「その白い肘にくくりつけた印はなんの真似ですか? ご婦人の腕飾りにしては変わりすぎていて、鼻持ちならぬ。袁氏も地に堕ちたと言われぬよう、熟慮めされよ」
孟徳は袖をぱっと振ると勢いよく立ち上がった。そして袁紹を振り返りもせずに立ち去った。
「おやおや、意気盛んなこと。あれが宦官の家の子、曹操とやらね。なんだか変な男。大言壮語するらしいねぇ」
「そこだ、そこ! 妖物がおる」
曹操は護衛の武将の弓を奪い、私をめがけて弓弦を引き絞る。私は慌てて飛び立った。
「鳥か、変な鳥だぞ。物知りの孔融に聞くとしよう」
遠くで曹操が護衛に話しかけていた。
曹操、なんと恐ろしい目をした男だろう、私の胸は破れんばかりにとどろいた。曹操という男、負け戦で兵の大半を失ったとか。それが揚州に行って兵を集めて来たと聞く。懲りないわ。たいていの人間はへこむ。この男の内側をさぐりようはないが、面つきは平然としている
じ鳥の『じ』は次の下に鳥をつけた字です。
続く