妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十一

    妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十一

 

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 中国歴史地図集  三聯書店(香港)より

 埃だらけの梁の上でじっとしているのは息苦しい。蜘蛛の姐さんに別れを告げると、清々しい空気を求めて私は庭に飛び出る。深山幽谷の趣がある贅をこらした庭は、空気まで深山のそれだ。人間に変化(へんげ)して、しとやかに小道を歩いていると背後で聞き覚えがある声がした。

「趙姐さん、趙姐さんじゃないか」

「あら、その声は」

 懐かしさに私の胸は躍る。

 やはり彼らだった。振り返った私の目に玉璽と玉座の精の笑顔が飛び込んできた。再会を喜ぶ笑顔と笑顔。やがて私の笑顔は悪い予感に打ちひしがれて、月並なみなものになった。

 「何があったの?」

 少し見ぬ間に彼らの面差しはすっかり変わってしまっていた。儚げだった面差しは少年というより、壮年のそれである。そのうえに表情にふてぶてしさまで加わった。

「えっ。何ごともなく平穏だけど」

 玉座の精は目を丸くした。

「別れて数ヶ月も経っていないのに、ずいぶん年を重ねたようですね。すっかり大人びてしまいました」

「姐さんだけは、ちっとも変わらない」

 玉座の精が片頬だけゆがめて笑った。

「本当に変わりませんねぇ」

 玉璽の精がにやにや笑う。

「そんなに変わらないのも珍しい。きっと……」

 玉座の精がにっと笑う。皮肉が笑顔に陰を落としていた。彼は袁術に似てきた、しぐさが袁術そっくりだ。

「きっと? その言葉のあとに何が続くのでしよう」

 私は玉座の精を見返した。懐かしいはずなのに、うち解けることが出来ない。もはや玉座の精は前の玉座の精ではないのだ。彼は憑依するものによって変化(へんげ)するのだ。

「きっと並はずれて情が強(こわ)いのだよ。冷たくて何もかも弾き返してしまうか、激情のあまりに憤死する強(こわ)い女」

「動と静……、相反しているというのね」

 痛いところを衝いてくる。けれども一体、私はどちらなのか? 私ですらわからない。

「姐さんは駄々をこねているのさ。可笑しいよ。ふん、腐肉漁りの烏野郎の仲間のくせに、汚れるのは嫌だ、嫌だと駄々をこねる。姐さんの一族は禍々しい亡国の鳥だ。呪われた宿命の鳥、姐さんの清らかな化けの皮を剥げば、おぞましい鳥の姿が現れる。生まれつき汚れているくせに」

 玉座の精は冷然と私を見下ろした。

 木や石で出来ている彼ら、木石の心ほど解しがたいものはない。木石を相手に私はつい熱くなってしまった。

わが一族は禍々しい宿命を背負わされて生まれました。いけないのですか? じ鳥が人の心に近づいてはいけないのですか? 」

 背負わされた宿命はどうしようもない。そうではないか。

 私に向かって放った玉座の精の毒が、やわらかな私の心をいたく傷つけた。心が血を流している。悪い時の巡り合わせに鳥ですら血を流しているのだ、それがわからないのか? 女郎蜘蛛の姐さんの『女郎蜘蛛の身の上を呪ったことがある』という言葉が、私の脳裏を過ぎった。私も蜘蛛の姐さんも、荊(いばら)の笞(しもと)で責められる苦しみに泣いた、心が血を噴いた。木や石でできた玉座や玉璽たちは血を流すのだろうか。かれらこそ、人の血を吸って生きながらえる妖(もののけ)ではないか。

「滑稽なのだ。正義面した亡国の鳥になにができる。思い上がりも甚だしい。姐さんが飛びまわると流血の惨事だ」

「私は亡国の鳥、じ鳥族の出だ。だから、ものを考えてはいけないのですか? 考えない方がよいのに、考えてしまう。せめて……せめて……草に宿った露でよい、朝の光に輝き儚く消える露でよい、玻璃のように美しく輝きたいと願ってはいけないのか」

「自分だけは特別だと思いこんでいる。そして私たちが時流にすり寄るのを冷ややかな目で見る。汚いこととは無縁だと高みの見物だ。許せないのだよ。ふん、笑わせるじゃないか」

「その言葉、そっくりそのまま返してあげる。妖(もののけ)のなかの妖(もののけ)に。友達だと思っていた、きみたちの痛みがわかると思っていた。けれど思い違いをしていたのですね。きみたち、だんだん袁術に似てきた」

袁術の生気を受けたからですよ。こんなに太ってしまって可笑しいでしよう」

 玉璽の精が無邪気に笑った。

 なるほど、袁術の生気が糧なら袁術に似てふてぶてしく変貌するのも無理もない。

「さよなら」

 私は彼らを等分にみた。彼らとは友達でもなんでもないが、見てはいられない。彼らが奇怪な化け物に変化するのを見たくない。

「さよなら、姐さん、また会える日まで。僕のこと忘れないで、きっとですよ」

 玉璽の精が笑顔でお辞儀をした。けれど玉座の精は気むずかしそうにぎゅっと唇をかんだまま、無言だった。玉璽の精の無邪気さが痛々しい。ついこの間も、誰かが偽の玉印を作って地中に埋めたらしい。掘り出した誰かが権力者に献上した話をたびたび聞いた。そのうち、玉璽の精は忘れられ、新たな玉璽の精が生まれるだろう。忘れられたが最後、死にも等しい永遠の眠りにつかねばならない。

「忘れないわ、私の命ある限り、あなたがここにいたことを忘れない」

 涙を悟られないように、私は玉璽の精に背をむけて空へと羽ばたく。醜い茶色の鳥に化して。

 空はこんなにも青いのに、地上は血なまぐさくて獣の臭いにみちている。哀しい、なんと哀しい空だろう。無数の悲しみが水の泡のように空に立ち昇っていく。ああ、死者の魂が天に戻っていくのだ。

 

 玉座の精の心変わりに、私は平然として顔色一つ変えなかった。変わる、変わる、ものみなすべて変わる。変わらないものを見たことがあるだろうか? そう心に言い聞かせたものの、柔らかい心に刺さった刺は抜けず、一人になると胸の痛みに耐えかねた。杏姐さんの人懐こさが唯一の救いだ。そして玉座の精が「腐肉あさりの烏」と評した、杏姐さんの想い人である烏の長(おさ)の黒衣郎に聞きたいことがあった。玉座の精より黒衣郎のほうがはるかに自由に生きていて、時世に媚びないところが上出来ではないか? 杏の花が散ると姐さんは眠りに就く。けれどもまだ今なら間に合う、私は急いで杏の林に向かった。

 「おやおや。趙姐さん。なにがあったの? 哀しそうな目をしておいでだ」

 杏姐さんは眉をひそめて私の顔をのぞきこむ。

「醜い化け物に変わっていく妖(もののけ)を見てしまった」

「きっと変なものを食べてしまったのね」

「友達だと思っていたのに……そうではなかったのよ、その妖は」

「気にしないで。また、新しい友達を見つければよい。趙姐さんは気だてがよいから、すぐに友達ができるさ」

 杏姐さんは私の肩をぽんと叩く。

「それはそうとね」

 杏姐さんは大きな目をくるくる動かした。

「なんでしよう」

「あっちこっちで軍隊が動く。大変な世の中だよ。趙姐さん、流れ矢にあたっちゃたまらないからね。私だって木を切られたらおしまい」

「もしものことがあったら私は姐さんの種をまく。もし、切り株からひこばえが出たら、姐さんだと思って大事にお世話するわ」

「きっとよ」

「ええ。きっとね」

「ここもいつ戦場になるか知れたものじゃない。戦になれば兵士は私たちを切って薪にしたり、城攻めの器械を作ったりするからね」

「まあ」

「まあと驚くのも命あってのものですよ。黒衣郎の仲間が射殺されて食べられてしまったのよ。人間どもときたら、食料に困って共食いをはじめたというじゃありませんか」

「ええ、見ました。命の意味を考えさせられました。けれど姐さん、私には答えを見つけることができません」

 私はため息をついた。そのようにして人は命をつないできた。生きるに値する値打ちがあるのだろうか? 


     続く

注*じ鳥(じちょう)のじは
   次の下に鳥がつく字です。