妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十

    妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十

 袁術という男、俗物と看た。私は南陽に来たことを後悔した。華の雒陽に侠気の男の子ありと称された昔がまるで嘘のようだ。そう、人は変わる、変わらいでか。ああ、一体、私は人間になにを求めているのだろう。妖(もののけ)のくせに。そう、人間の暗から生まれた妖(もののけ)のくせに。袁術という男、もっと近寄って観察してみよう。俗臭が鼻について耐えられるかどうか自信がないけれど、私は世界で一番偉いのは自分だと信じ込んでいる男の部屋に忍び込んだ。路傍には飢えた民が天を仰いで己の不運を嘆いていたが、彼が治める府寺(やくしょ)には飢餓の色はなく、異国の珍しい香の匂いに包まれていた。館の奥の庭には奇岩をぬって流れる清流が池にそそぎ鯉や鮒が泳いでいたし、木々で小鳥がさえずっている。まるで別天地、仙界である。
梁の上に止まって私は袁術を見下ろしていた。おおぶりの珊瑚を飾った棚のまえで袁術は目をほそめ、侍女に絹で珊瑚のほこりをぬぐわせていた。
「かように大きな珊瑚は天子でも見たことがなかろう」
腹をゆすって笑う。術の容姿は袁紹に及ばない。しかも、でっぷりと太って往年の精悍な面影はない。今やこの男の皮の中には欲望しかないらしい。南陽太守、たいしたものである。
「おや、おまえさん」
梁の隅の暗がりからしゃがれ声がきこえた。目を凝らすと女郎蜘蛛だった。
「はじめまして蜘蛛の姐さん」
「おまえさんはみみずくかね? 私を食べようなんて考えないで。毒にやられるがおちだ。おや、毛色が少し変わっている」
「ええ、ええ。そんなものだと思ってくださいな」
 話せば長くなる。説明するのがおっくうで私は曖昧な返事をした。
「あの殿様は運がよい」
 蜘蛛の姐さんは可笑しそうに笑った。よほど話し相手に飢えていたとみえ、
親しげに私の横に並んだのはよいが、蜘蛛はばりばりと蝶の足をかじり、食べ残しをぽいと梁の下に投げた。これじゃ友達になりたいという物好きはいないだろう。生け贄になった胡蝶の羽が蜘蛛の巣で嘆くように震えている。
運がよい、のですか?」
「そうさ。あの殿様、その前はこの郡の陣営で暮らしていた。禄はない、そのうちに食い詰めるのさ。食えなきゃやっていけないさ」
「そりゃそうね」
孫堅という暴れ者の長沙太守がやってきて、兵糧をだせ、出さないでもめてたね。太守は孫堅を相手にしなかった。兵糧をけちったのが命取り、殺されてしまったよ」
「殺してしまったのですか?」
「そうさ」
 蜘蛛の姐さんは妬ましそうに袁術を見下す。


 姐さんが詳細に語ってくれた。袁術南陽太守の職を得たのは、孫堅南陽太守の張咨(ちょうし)を殺したお陰である。
長沙太守だった暴れ者の孫堅が義兵を率いて南陽に来たが、張咨は軍糧を与えなかった。そして孫堅との面会すら承知しなかった。孫堅南陽を通過したかったが、この張咨がじゃまをして背後を襲うだろうとふんだ。そこで奇計を用いた。孫堅は急病をよそおった。これは山川の神の怒りに触れたからに違いないと、巫女や覡(おとこみこ)を呼ばせて山川に祈らせた。おそらく孫堅たちもまた、行く先々で墓を暴いて財物を奪ったからだろう。
呉人は迷信深い。ことあるごとに巫女どもを呼ぶのは呉人の常である。だれも怪しまない。そのうえに日頃から親しくしている人物を通じて咨に伝えた。
「自分は急な病にかかり助からないだろう。自分の私兵を太守に差し上げたい」
なんと豪気な申し出だろう。張咨は喜び、孫堅の好意を受けることにした。歩兵、騎兵あわせて五、六百を率いて張咨は孫堅の軍営に出向いて孫堅と対面した。すると、瀕死の病人のはずだった孫堅が剣を手にとるや、がばっと起きあがった。呆気にとられている張咨を孫堅は罵る。そして咨を捕らえるや斬ってしまった。そのまま孫堅袁術の軍門に降った。霊帝の御代に朱儁という大物の武将が黄巾の乱を平定に加わったが、朱儁はこのとき同郷の孫堅を抜擢して黄巾の乱平定の武将に任じた。孫堅は功をあげこれ以降、順調に出世していく。朱儁孫堅の恩人である。その朱儁は、かつて袁氏の引き立てで官途についたという。だから孫堅が袁氏に親しみを感じるのはもっともなことだと、蜘蛛の姐さんは教えてくれた。蜘蛛の姐さんは梁の隅に巣くっているだけあってずいぶんと南陽郡のことに詳しい。
南陽太守の職があいた。荊州刺史の劉表は名門の袁術南陽太守に抜擢したが、荊州刺史部に属する南陽郡は大郡である。漢の最盛期には三十七城、戸数(いえかず)五十二万八千五百五十一、人口二百四十三万九千六百一十八を数えた。南陽郡の郡城は周囲三十六里、規模が大きい城である。
袁術南陽に拠っていたころ、戦乱で民は故郷をすてて流浪したが、それでも人口は百万をくだらない。袁紹袁術は従兄弟どうし、従兄弟だからこそ愛憎は格別のものがある。袁術孫堅豫州刺史の職務を兼任させ、董卓を討つために陽人城へと進軍させた。孫堅は陽人にいてすぐにはもどれまい。同じ義旗ながら袁紹は足を引っ張った。部下の周昕(しゅうきん)を派遣して豫州を乗っ取ろうとした。怒った袁術は兵を繰り出して周昕を敗走させた。
「いろいろあるね。私は女郎蜘蛛の身の上を呪ったことがあるが、人間であることも辛いらしいね。面白可笑しく暮らしているかと思えば、血を吐くほど苦しんでいる」
蜘蛛の姐さんはため息をついた。
「そうね。考えをもつということは諸刃の剣」
 妙にわたしはしんみりしてしまった。
後になって思い当たったことであるが、あまりにも優れた人間が側にいると、おのれが卑小にみえてどうしようもなくなる。袁術の悲劇は袁紹に遠因を発している。袁術はしだいに正気でいられなくなる。多分、生え抜きの名門の貴公子たちは、背負わされた家名の重荷につねに向き合わねばならなかったのだ。
 
 私は袁術の頭上に梁につもった鼠の糞を落としてやった。
「おやおや、おまえさん。恨みでもあるのかい?」
「いたずら心がそうさせるのよ」
 本当は袁術のような男、反吐がでるからそうしたまでだけど。
「殿さま」
侍女が身をかがめて眉をしかめた。
「なんだ」
「鼠のけしからぬものが冠り物に」
「けしからぬもの?」
 侍女はつと手をのばしかけてすぐに手を引っ込めた。術が勢いよく首をふったから鼠の糞はばらばらと床にこぼれ落ちた。
「けしからん。まったくけしからん。この袁公路をなんと心得ておる。毒餌でも煙攻めでもなんでもよい。即刻、退治させろ」
術は天井を見上げて真っ赤になってわめいた。
鳥の姿の私は梁の隅で笑った。思いの外、肝の小さい男かもしれない。これでは玉座の精たちも居心地が悪かろう。ふふふっ、計算高い彼らである、次の寄生先を思案しているにちがいない。


 続く

 本当は「もののけ」ではなく「あやかし」と名付けたかったのですが、諸橋の大漢和を引くと「あやかし」とは海のばけものに使うとありましたので、妖(もののけ)としました。