妖(もののけ)の涙――小説 玉璽物語十三
冀州(きしゅう)から東北へ通じる街道に黄塵が絶えない。来る日も来る日も避難民が東北へと街道をたどった。
「どちらへ行きなさる」
木陰で憩う埃まみれの男に物売りが問うた。
「幽州です」
答えた声は若く、涼しい目元が印象的である。
「ほう。近頃、幽州へ避難するものが増えましたな。そこはよいところか?」
「公孫将軍が睨みを利かせているから安全だよ。飢饉がない、実りゆたかな冀州の穀物が幽州に流れる。長城をこえて荒らしにくる烏丸や鮮卑を防ぐための費(ついえ)は、冀州からの食糧でまかなうよう決められておるからだ」
「なるほどねぇ。あんた、公孫将軍は戦を好むらしい。兵士にとられる心配はないか?」
「はっはっは。公孫伯珪(瓚の字)の烏丸嫌いは有名だ。どこに住もうが戦わねばならぬご時世だ、それが多いか少ないかの問題ではないか? 飢えて死を待つか、生きるために戦うかのどちらかだ。心配するな。幽州牧の劉伯安(虞の字)の政(まつりごと)は慈愛そのものだ。欠伸をしなさったね。やめましよう、こんな話」
「いやいや、続けてくだされ。こうみえてもあっしは諸国の話に耳をかたむけ、何を仕入れて何を売ればよいか思案します。それにまぁ、家人を安全なところへ逃がしてやる務めがありますわい」
「ならば幽州だ。義旗の盟主である袁本初(紹の字)が天子に立てようとした劉伯安が治める幽州だ。州の長官なのに冠が破れても繕ってかぶっておられる。身をもって民に節約の手本を示されているが、州牧の体面もあろうに、なかなかできることじゃない」
「ほう」
気のせいか物売りの顔に冷笑が浮かんで消えた。
「徳でもって接するから、烏丸や鮮卑が帰順する。関所には烏丸との交易場ができて繁盛しているらしい」
「交易場ですかい? そりゃいい。狐や貂(てん)の毛皮はべらぼうに儲かりまさぁ。はて? 食うや食わずの乱世に買い求める長者がおるのか……」
「力のあるものが買うさ。己の力を見せつけるために」
物売りはなれなれしく男の隣に座り込んだ。
「ひとつ気がかりなのは、劉幽州と公孫伯珪のやり方が正反対なことだ」
男は人が良いのか、警戒する風もなくにこにこと物売りに話しかけた。
たまたま通りかかった私は、男の人の良さにはらはらした。物売りの身のこなしに隙がないのである、こんなに隙がないのは武芸者くらいだ。物騒な世の中だ、物売りにも身を護る術の一つや二つあって不思議はないが、それにしても隙がなさすぎる。
「飢えなければよい。人食いが横行しておる。盗賊や黄巾の餌食にならないのもよいではないか」
「なるほどねぇ。ところで……」
「なんだ。妙に改まった顔だな」
「『当塗高(とうとこう)』ってなんですかい?」
物売りはさも重大な秘密でも打ち明けるように声をひそめた。
「声をひそめなくてもよいよい。長安の天子の御稜威(みいつ)はここまで届かぬ」
「へぇ、まあ」
物売りは肩をすくめた。
「近頃よく聞くなぁ」
「へぇ、流行っとりますな」
「預言書にあるとかいう『漢帝に代わるものは当塗高』という言葉か。漢帝に代わるものは大塗(だいと)にあってまさに高いという意味だが」
一人二人と人が男のまわりに集まりだした。『当塗高』という謎めいた言葉が人を引き寄せるのだ。
「当塗とは要路だが枢要の地位にある者をも意味するぞ。さっぱりわけがわかぬが、わからないところが予言の面白さだろうな」
男の言葉に、「ほう」と物売りがため息をついた。
「大塗っていうのは大きな道とか聞いとります。するとなんですかい」
物売りはあたりを見回した。『当塗高』の言葉が人を呼び寄せ人垣ができていた。
「うーむ。これはやっぱり袁氏の後将軍である袁公路(術の字)を指しておるのですかい? あの家は四世にわたって大臣をだしたてぇした家柄で、なんでも舜の後裔だというじゃありませんか」
物売りは忙しそうにかれらをとりまく人垣に視線をそよがせた。
「あっはっはっは。あっはっはっは」
突然、男は空を仰いて大笑した。
「おや、どうなすった?」
物売りが怪訝そうに男を振り返った。
「おい。物売り、正体をみたぞ。おまえ、袁術の密偵だ。その隙のない身のこなし、武芸で鍛えた証拠だろ」
男が大声を張り上げた。
「あっしはただの物売りだ。あっしのどこが気に入らなくてけちをつける」
「へん。旅人を相手に漢帝に代わる者は土徳の黄だ、聖帝舜の後裔である袁公路だと宣伝しているのか?」
「いちゃもんつけるのはよしてくだされ」
そういうなり物売りは顔をしかめ何が痛いのか腕を押さえ、人垣を蹴破って姿をくらませた。
「袁術に伝えろ。『当塗高』が袁術だと言いふらして何する気だ。そのために袁紹と溝ができて大勢の者が死んだ。私の兄も友達も死んだぞ」
物売りの後ろ姿を追いかけて男ががなり立てた。
気がついていたのだ、間が抜けたお人好しとばかり思っていた男の変わりように、思わず私は声をだして笑ってしまった。
「やい、女。じろじろ見るな。ははぁ。おまえ、おれに惚れたのかい?」
男は私をじろりと睨んだ。
私は地面に転がっていた匕首(あいくち)をゆっくりと拾い上げると男の鼻先につきつける。
「な、なにする」
「命の恩人に向かって無礼だってことさ」
「……」
「あいつの腕をねじり上げてやらなかったら、ぷすりと脇腹を一突きだよ。しくじったからあわてて逃げたのさ」
「……すまない。姐さん」
男はうなだれた。
「気をおつけ。どんな者が近寄ってくるか知れたものじゃない」
この男とは関わり合いたくなかった。学はあるらしいがあまりにも無防備で先が思いやられる。目を潤ませた若者から急いで私は遠ざかった。
「戦だ、戦だ! 者ども集まれ」
「おう」
「伝令を走らせろ」
「おう」
「土竜(もぐら)どもを攻め滅ぼせ」
「やつら、名に竜という字を戴いても雨や風を呼ぶことはできぬ」
「雨乞いのために日に晒してみろ。ひからびてすぐに死ぬ。情けない野郎だ、まったく」
「わが王国を侵犯し、わが一族の子供たちを殺戮した罪、断じて許してはならぬ」
「螻蛄(けら)だと馬鹿にしやがって螻蛄の底力をみせてやろう」
「おう」
「伝令よ、走れ。すぐさま軍勢を集めろ」
「おうさ」
「土竜(もぐら)の野郎、公孫瓚(さん)を褒め称えておるのも気にくわねぇ」
「俺は公孫瓚(さん)という奴がでぇ嫌いだ」
「おいらだって御の字。わかるぜ、その気持ち」
仲間の若い螻蛄がジーと答えた。
「我慢ならねぇのは公孫の白馬義従だ」
「そうだ、そうだ。烏丸の気持ちがようわかる」
「烏丸のように、おいらも公孫瓚(さん)の顔を描いて的にはりつけ、弓で射る」
「そうだ、弓で射てやれ」
「おう。射るぞ」
「射るぞ、射るぞ」
私は廃屋の隅で藁(わら)にもぐりこんで眠りに就こうとしていた。耳を聾せんばかりの螻蛄の鳴き声に、旅の疲れもなんのその、目が冴えて眠れなくなってしまった。
思えば私も物好きだ。烏の若者たちには遠く及ばないが、袁紹と一悶着を起こした、正確にいえば袁紹が原因を作ってしまったのであるが、公孫瓚を一目見ようとわざわざ幽州まで来てしまったのである。
「ねぇ、お兄ちゃんたち。白馬義従ってなあに」
幼い声がした。
「なんだ、小童(こわっぱ)。白馬義従というのは公孫瓚(さん)の供回りだよ」
「天子の近衛兵(このえへい)さ。公孫の近習をしゃれて白馬義従とよんでおる」
「瓚(さん)の野郎はいつも白馬に乗っておる。野郎が行くところ、白馬にまたがった腕が立つ騎馬武者が数千騎馬、ど、ど、どっと土埃をまきあげてついて行くからさ」
「えっへん。童たちよ」
老いた螻蛄(けら)がジーと鳴いた。
「お師匠様だ」
螻蛄の童がジーと鳴いてお辞儀をした。老いた螻蛄(けら)は頷くと「よいかな」と螻蛄の童を見回し、よく通る声でつづけた。
「義従とは義に従って行いをともにすることだよ。関西の羌(きょう)という民族の反乱を平らげるとき、帰順して湟中(こうちゅう)に住んでいた羌族が官軍に付き従って戦った。この者たちは湟中義従と呼ばれた。公孫瓚もかつては羌族の反乱を鎮めるために西方に行ったことがあるのだよ」
「お師匠様……」
「もじもじしないで言うがよい」
「どうしたらお師匠様のように物知りになれるのでしょうか?」
「学問が好きな螻蛄(けら)がいてもよい。わたくしは涿郡の盧子幹(植の字)に師事した。螻蛄ゆえに堂の隅に潜み隠れて学んだが、わしも公孫瓚(さん)も劉玄徳(備の字)も盧先生の弟子だ」
「公孫なら知っているけど、劉玄徳という者を知りません。有名な人でしようか?」
「無名に近い。あの男はさして学問好きでもなかった。ところが人の心を掴むのだな。これが天性、人を引き寄せる力を持っておる。これは立派な才能だ。黄巾の乱の平定で功をたてたが……公孫のように華々しい出世はしておらぬ。だが、時流に乗れば風雲を呼び天翔けるだろう」
「龍のようですね」
「そうだ蚯蚓(みみず)で終わるかも知れぬし龍に化けるかもしれぬ」
「すごい人間に出会いましたね」
「ああ」
「お師匠様、私もいつかきっと人間に師事いたします。世間というものを見とうございます」
老いた螻蛄の言葉に私は思わず目を潤ませた。
続く。
注*湟中(こうちゅう)