妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十六

 妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十六

ここは冀(き)州の都、鄴(ぎょう)である。鄴には州牧の府寺(やくしょ)がある。冀州牧であった韓馥(かんふく)も鄴の府寺に住んだ。

『ああ、天下の人傑はこぞって袁紹のもとに集まるが、なぜわしのところではないのか? 勃海(ぼっかい)太守の袁紹が擁するのは、たかだか義旗の衆十万。それにひきかえ、わが冀州武装兵は百万、冀州を十年支える穀物の蓄えがある』と、韓馥は義旗の盟主である袁紹の人気を妬んだ。義旗の盟主である袁紹におくる兵糧を減らした。食えなくなれば衆は自ずと散っていく、おのれの手を汚さずして袁紹を倒せるぞ。このうえない上策に韓馥は酔った。

兵糧攻めに遭った袁紹は当然のことながら韓馥を恨んだ。河内に拠った袁紹が、董卓から勃海太守の官を与えられ勃海に赴任したときも、韓馥は、勃海の府寺の門に役人を派遣して義兵が西へと動かないように監視させた。袁紹は怒った。義旗の足下が崩れていく。側近の意見を取り入れて、韓馥から冀州を取り上げることとした。韓馥を脅したり、説得したりして冀州牧の官を袁紹に譲らせてしまったのである。韓馥は府寺を出て宦官の館に引っ越してしまった。

私が唯一おそれる鋭い眼光の持ち主、曹操はこれを知ると、『袁本初(紹の字)め、義旗の大義を忘れて国盗りだ。けしからん』と、嘆いたという。

国盗り合戦である。董卓のことをとやかく言えたがらでない。

 「たけり狂っとるのか? あの猪武者が」

  袁紹は片頬だけ崩して笑った。

笑って余裕のあるところをみせたが、内心では『これはまずい』と、舌打ちしたにちがいない。『たけり狂っている猪武者』は公孫瓚(さん)で、袁紹は猪というが、世間では北方の虎で通っている。その虎は、青州の黄巾を掃討して勢いを増し、猛虎になっていた。

青州の黄巾を屠って勢いがついた公孫瓚を怒らせるとはなぁ」

螻蛄(けら)の好学が遠慮がちにささやく。

「義旗という美名のもとに大物どもが覇権を争っている。正義が涙を流していますわ。幼い天子は飾り物でしかない、漢は滅びたも同然です」

「趙姐さんは話がわかる。まったくそうだ。それにしても悔やまれるのは盧子幹(植の字)先生が参謀についていながら、なんたる下策じゃ」

 好学が悔しそうにか細い腕を振り上げる。

董卓の追っ手をまいて深山に隠れていると聞いたが、この城にいたのですね。ここほど安全な場所はありません」

私は、孫呉の兵法に長けた盧子幹の知恵に感嘆した。深山での暮らしは家人には耐えがたいものがあろう。

「おお。なんと学がある方々だ。お主たちの話聞かせてもらいましたぞ。筋が通っておる」

 野太い声がして、三筋の白い毛を鬣(たてがみ)のようになびかせた鼠が、白いひげを震わせながらゆったりと歩み寄る。

「おや、これは鼠殿。挨拶が遅れて申し訳ない。わしらは旅の者で、わしの名は估郎(ろうころう、)字は好学、生国は幽州、幽州から参った。鼠殿のなわばりに挨拶もなく立ち入った無礼、許されいっ。すぐに立ち去るつもりじゃ」

「私は趙英媛(ちょうえいえん)、生まれは漠北の黒い森。鄴(ぎょう)には捜したいものがあってまいりました」

「わしは鄴で生まれ育った白頭王だ。あまりにも長生きしすぎたのか、近頃は怒ることばかり、怒りで胸が張り裂けそうになる。じゃがのう、お主たちの怒りも相当なものと看た」

 白頭王は揖礼(ゆうれい)をしてから、ふうとため息を漏らした。

「無理もない。まともな世ではござらぬ」

 螻蛄(けら)の好学は礼を返してうなずく。

「さよう。まともな世とはいえませぬぞ」

 白頭王は眉をひそめて私たちににじり寄った。

「のう、旅のお方よ。あの袁紹は」

 白頭王が梁の下を指さし、続けた。

袁術が天下取りの野望をむき出しにしおったので、そうはさせまいと袁紹は一計を案じた。なにしろ袁紹という男は、この世で一番すぐれている男はおのれだと信じ込んでおる」

「ふーむ、なるほど。……日が沈む西方の果てに大秦国という胡人の国があるそうじゃ。その大秦の都が唯一、炎上した雒陽や王莽(おうもう)が奪った漢の都、長安と肩を並べる大きさと美しさと聞く。広い世界にたった二つだ。それゆえに、この国でもっともすぐれた者は、この世で最も優れた男といっても言い過ぎではない」

 螻蛄は饒舌だった。

「おお。好学殿の話は奥が深い。袁術をはじめ、天下取りの野心は袁紹にもある。それゆえに袁紹は、孫堅董卓を撃つのを妨げた。義旗だと? 可笑しいのう。大義、正義をふりかざして刺史や州牧は戦国の諸侯のように覇権争いをはじめよる。隙あらば領土の分捕りだ」

 白頭王が哭くように激しく髭を震わせた。

「嘆かわしいがこれが現実でござるよ。人の血を吸う妖(もののけ)が人間(じんかん)に増えた。人の皮を被って乱を起こすから始末が悪い」

「吸血鬼か……ああ、嘆かわしい」

「白頭王よ。嘆いていても仕方がない」

公孫瓚は従弟(いとこ)の公孫越を派遣して袁術に力を貸した。公孫越孫堅と一緒に出征したが、袁紹が差し向けた武将の流れ矢があたって死んでしもた」

 白頭王は拳を空につきあげて怒った。

「ああ、わが師の廬子幹(植の字)が袁紹に請われて側近となっておられるのに、なんと馬鹿なことを」

「馬鹿げていますわ。従弟(いとこ)の越の死。瓚は泣いた、嘆いた。冥府の使者をもひっ捕らえん勢いで怒った。瓚(さん)の気持ちわかります。瓚は孤独な男だから人のぬくもりに人一倍敏感なのですわ」

 私は鉄の仮面をつけたような猛々しい公孫瓚が、人一倍感じやすい心の持ち主だと見抜いていた。あの大耳の劉備が、廬植の門下生という縁で公孫瓚を頼ったときは、どんなにうれしかったことか。

公孫瓚が怒っていることを知った袁紹は、瓚の従弟である公孫範を勃海太守に任命して瓚の力を削ごうと図りましたね」

「ほっほっほっ。上策のはずが下策に終わった。範は勃海の兵を率いて公孫瓚に味方した」

 白頭王がおかしそうに笑った。

勃海は郡ではあるが州にも匹敵する大郡、手痛い損害でござる」

 好学が笑った。

「ところで、瓚が幽州から易京(えきけい)に鎮を移したらしいが、どんな具合かのう」

「おお、そのことでござるが」

 好学が白頭王にすり寄る。

「易水ぞいに壮大な楼観が並んでおりましてのう、まことに北方の覇者にふさわしい都ですぞ」

「これまた天下取りの野望に取り憑かれておる。瓚もまた妖(もののけですな」

 白頭王はうんざりというふうに髭をふるわせた。

 

注*易京(えきけい)

 地名。河北省雄県の西北。漢の易県の地。漢末、公孫瓚、幽州から鎮をこの地に移し、盛んに営塁楼観を修む。これを易京という。のち、袁紹に破らる。

 

梁の下では袁紹が若い小者に報告を促していた。

「はっ。公孫瓚はわが袁冀州の罪状なるものをしたためて長安へ送りました」

「罪状? なんの罪状だ」

 袁紹はいぶかしそうに密偵の顔を注視した。間抜け面をした若者は、聡明な資質の持ち主らしく、口ごもった。袁紹の罪はいくらでもある。天子は長安から逃れようとしていた。幽州牧の劉輿の息子が天子に仕えて長安にいたので、この息子に、「兵を率いて天子を迎えに来い」という密書を持たせ、幽州の劉輿のもとへ行かせた。武関を通って袁術のところへ逃げ込むと、袁術はこの息子をていよく拘留して幽州へ行かせなかった。息子は隙をみて逃げ出し、今度は袁紹のもとに駆け込んだが、袁紹もまた彼を捕らえて劉輿のところへ行かせなかった。息子は袁紹のもとから逃亡してようやく父のもとたどり着くことができた。これは明らかに罪である。小者にはそれが痛いほどわかっている。だが、言えない。言ってはならない。主君から『正直に話せ』といわれても話に乗ってはいけない。闊達に振る舞っているが、袁紹は猜疑心のかたまりのような男だ、そのような男を相手にするときは、探ったことどもを文書にして報告し、質問に答えるだけがよい。

「お耳を汚すほどのことではございませぬが、お役目でございますれば書状にてすでに報告ずみでございます」

 白絹に漆で書かれた報告書に目を通すうちに袁紹の手が震えた。

「どこまでも公路が祟りよるわい」

 袁紹の吠え声が部屋にとどろいた。色白の顔は怒気に赤く染まっている。

 袁紹が君子のたしなみも忘れて怒っている。私は愉快になって思わず笑った。勢いよく息を吐いたものだから梁の上の塵(ちり)が舞い上がった。

「ふーむ。袁紹は俗っぽいぞ」

 好学がにやりと笑う。

「好学先生、声が高い」

「おお、すまん、すまん」

螻蛄の妖(もののけ)は声を潜めた。

「なにもかも将軍にかなわない。それゆえにことあるごとに公路(袁術の字)殿は妬んで将軍に反対するのでございます」

 側近が慰める。

袁術は祟り神のように祟った。袁紹の提案はことごとく理由をつけて反対する。袁紹の生母は正室でない。それゆえに『あれはわが家の奴隷だ』とか『袁家の血筋ではござらぬ』と吹聴するのである。

続く