中国古代の鄴(ぎょう)城・私的メモ

  中国古代の鄴城(ぎょうじょう)・私的メモ



《鄴について》


 北斉地理志上(中華書局版 施和金撰)より
  司州の治所は鄴県である。今の河北省臨漳県の西南
 魏書地形志に
「鄴は二漢、晋では魏郡に属し、天平(534~537年)の初め蕩陰(とういん)、安陽をあわせてこれに属させた」とある。
 元和郡県志(げんなぐんけんし。唐代書かれた)にまたいう「もと漢の旧県で魏郡に属す、晋は懐帝(原文のまま。司馬熾)の諱をもって(←愍帝の諱ではないかな、もと秦王業だった人。しらべること。やはり愍帝の諱だった。)鄴を改めて臨漳県とした。石季龍(虎)はここに都を徙し、また改めて鄴県とした。冉閔及び慕容儁、東魏から高斉にいたるまで並びにここに都をおく」と。
 これより観るに鄴県の歴史は悠久で中間に改名の舉あるといえども、漢代より高斉に至るまで未だかって廃棄しなかった。
 
 鄴県に濁漳水がある。これは県の北五里を流れている。酈道元水経濁漳水注に云う「昔、魏の文侯は西門豹をもって鄴令となすに、漳を引いて灌漑し、鄴の民はその用(利便の意)を頼む。その後、魏襄王に至り史起をもって鄴令となすにまた、漳水を堰とめて鄴の田を灌漑したのでみな沃壌となる、百姓これを歌う」と。元和郡県志また云う「西門豹鄴令となる……」
 
 鄴県の地は華北平原の南端に位置し、県の北に漳水の沮あり、河北の襟喉に拠り、天下の腰膂、軍事上重要な戦略的地位を占め、歴来兵家の争奪の地となる。
『讀史方輿紀要集』に歴代鄴城の戦に関わる例をあげて云うに「趙悼襄王九年、秦が鄴を攻めこれを抜く。秦始皇十一年、王翦(おうせん)等鄴を攻め八城を取る。後漢の初め、更始の将、謝躬(しゃきゅう)が鄴に屯(たむろ)す、光武は呉漢等をして鄴を襲わしめ、躬を斬らせことごとくその衆を降せしむ。建安八年、曹操袁譚袁尚を黎陽に敗(やぶ)り追って鄴に至り、その麦を収む。九年、操、鄴を攻める、土山地道をなしもってこれを攻め、而して土山地道を毀し、塹(ほり)を鑿ち城を囲み漳水を引いてこれに灌(そそ)ぎ、まもなくその城を抜く。……」


 水経注に出てくる鄴城(北城と呼ばれているもの。旧城)は曹魏のときに作られたもの(←なぜなら袁氏を攻めたときに以前の城は荒廃しただろうから)で、東西七里、南北五里とあるように東西に長く南北が短い、南城と同じでないところがある。「鄴城に七門あり、南を鳳陽門といい、中を中陽門、次を広陽門、東を建春門、北を広徳門、次を厩門、西を金明門、一名白門という。」と、水経にある。
 鄴に西門豹の祠あり、また水経漳水注に漳水また東北して西門豹の祠の前を過ぎる。祠の東がわに碑あり。太平寰宇記に隋図経を引いて云う「西門豹の祠は鄴県の西南七里にあり、北は天平渠に臨む」と。北斉書文宣帝紀に云う「天保九年、この夏大いに旱す、帝もって雨を祈るも応ぜず。西門豹の祠を毀し、その塚を掘る」と。西門豹はいつのまにか神として祀られ雨乞いに際しては祠の前で祭ったらしい。
 
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グーグルマップより(戦国の趙国の王城の遺跡)
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水経注に記載された鄴城の付図(曹操が興した魏の都。北城)
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鄴城の三台の遺跡。(土台である) 写真はグーグルマップより
   
中国考古(中国社会科学院考古研究所)
 趙の邯鄲故城はこれ戦国から漢代趙国に至る都城遺址で趙王城と大北城でできている(組成)。趙王城の性質に関していえば一般的に戦国時代の邯鄲城の宮城である。国家文物局の批准(?意味をしらべる)を経て2004年から2005年に河北省文物研究所対趙王城西南遺址の大規模観察と測絵が行われると同時に西城の南垣と東城の東垣の小面積の解剖発掘が行われた。2007年から2008南水北調中線建設工程の文物保護工作中に河北省文物局の委託をうけ、趙王城西南1500メートルに位置する鄭家崗遺址も大面積に発掘した。数年来(几)の考古的勘察と発掘された多数の重要な出土品から導きだされた結果は、城垣の建築及び城垣内側の排水(雨水)施設のための結構である、趙王城をとりまく城壕系統をみつけることができた。特に目を引いたのは南垣以南1000メートルのところで見つかった城南の囲城壕系統である。この種の形式的城壕の(布局)立地は東周の城市の考古学的な発現(姿)の一つの例である。
一、城垣建築結構(構造)
趙王城の城垣は等しく夯(こう)土で築かれたものだ。夯土で作られた墻体は一般的分けて基座とするが主体墻と内側台階面、西城東南一帯の墻体内側の另(れい。べつ)の……素面豆(素焼きの高杯)等
注*
(レイ、リョウ)
 別れる。別居。
さく、割開する。
べつに、べつの。
 
歴代宅京記巻之十二(清の顧炎武著)
鄴下
鄴都北城
 鎮の東南一里半にあり。東西七里、南北五里である。斉の桓公築くところである。漢は魏郡を置いた。はじめて都を置いたのは曹操である。水経注に曰はく「石虎の城はことごとく表飾するに塼(せん)をもってし、百歩ごとに楼閣一つを作った。なべて誌に、宮殿門台の隅雉みな加うるに観榭をもってす。重なる甍、そびえる屋根は雲をはらい、その宮殿台閣の装飾は薄絹(軽素けいそ。うすぎぬのこと)に丹青で描かれたものを使っていた。鄴を去ること六七十里、これを遠望すると高くそびえて仙人の住いのようだった。符堅末、慕容垂が叛いて鄴都を取ろうとし、堅の子の丕を攻め、その外郭を抜く。丕は中城を固守す。垂は漳水を壅(ふさ)いでこれに灌ぐ。晋将劉牢之来たりてこれを救う。ついに鄴の包囲を取り除く。丕、また鄴をすてて并州へ奔る。垂の将、慕容農は師を進めて鄴に入る。城広くして固め難きをもってすなわち鳳陽門を大道の東に築き、城を隔てた。これより鄴都はくずれ毀れ(残毀)、高歓が築いた南城をさすようになった。
 
およそ七門あり、南面する三門の正南を永陽門という
 北はすなわち端門、文昌殿である。


上の図は北城
 
東は廣陽門という
 永陽門の東北にある。すなわち司馬門である。
 
西は鳳陽門という
 永陽門の西北にある。すなわち九華宮。三門みな曹魏の建てるところで、石虎が九華宮を建てる。すなわち特にこの門は装飾した。水経をを考察するに蓋し高さは二十五丈、そのうえに層観(そうかん。幾層もある高殿)をつくる。楼(たかどの。二階家)に二つの銅鳳を置くに、頭の高さ一丈六尺、高さを窮め奢侈を窮め、天下の巧みをことごとくした。これ久しくして楼顚(たお)れ、銅鳳の一つが飛んで漳水に入ってしまった。のこりの一つを鉄の索(つな)でこれを絆(つな)ぐ。鄴中はこれを謡(うた)って曰はく「鳳陽の門楼は天の一半(はんぶん)。上に鴛鳳(鴛鴦はおしどり。鴛は雄、鴦は雌。ここではひとつがいの鳳、一対の鳳をさしている)あり、たがいに呼び交わし去らんとするも鉄の索(つな)に絆(つな)がれ去ることならず」と。
晋書載記に曰はく「建元の初め白虹大社より出でて鳳陽門の東南を経て天に連なること十余刻、すなわち滅す。季龍これを悪み、これより鳳陽門を閉ざす。ただ元日すなわち開けり。尉遅逈(けい)が鄴で反乱して敗れ、鄴は廃墟と化した。(←調べること)
 
東面の一門を建春門といい、西面の一門を金明門という
水経に云う一に白門と曰く。
 
北面の二門は東を廣徳門と曰く、西を厩門という
 四門また曹魏建てる所である。
右城門
 
宮室
北城の宮室
 
 注*水経注の本は注釈する人がいろいろいて、
  確か清代のポピュラーな学者の著作からコピーしてもらったのですが、
  中之島図書館の稀覯本でして、著者の名は忘れました。
  思い出しました、確か「清の楊守敬」という学者さんの水経注の注釈本で和綴じ   でした。