妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十二

  妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十二
 

 野にも山にも死屍累々、老いも若きも男も女もひとしく骨を晒す。ある地方では、血染めの川が死屍にせき止められて流れなかった。あまりにもの惨状に私は号泣しそうになった。一つの王朝が滅びようとするときはいつもこうだ。秩序が崩壊して新しい秩序が生まれようとするときはいつもこうなのだ。言い換えれば秩序は死者の屍のうえに築かれるともいえる。公孫瓚の兵が黄巾の残党を平らげながら南下したあとだ。冀州を取り損ねた怒りにまかせて、袁紹の兵をいたぶって北方へ引き返してからそれほど経っていない。見下ろす大地は白い石ころのように人骨が散乱していた。ようやく今になって死を悟った死者の魂がぽつぽつと天に昇っていく。恨みを背負って海月(くらげ)のよう空をさまよう魂。さまよい冤鬼(えんき)になるにちがいない。滅ぶべき肉体をつかさどる死者の魄(はく)は眠る場所をえず、哀れにも朽ちてしったから。

「あの白い石ころはなんだ」

異様な光景に気がついた螻蛄(けら)が鼠の頭の上に身をのりだしてジージー鳴く。

「先生、髑髏(しゃれこうべ)です。戦が続きましたから」

「……ひどいものだ」

 好学先生の声が震えた。

「ひどい世に巡り合わせたから、悲しいことだが先生も慣れてしまいますよ。鄴のような古くからの都にすんでおるから、様々なものを見ましたぞ。首無しの妖物の行列が夜な夜な物語りしますのじゃ。ところで姐さんや、曹操とか言ったな、どういう男かね」

 鄴の役所で曹操の噂話でもでたのだろうか、白頭王は曹操のことを知りたがっている。

曹操の父が羽振りを利かす宦官の養子になったので、曹操は低くみられております。しかも風采があがらぬ小男です、君子は美しくあるべきだという当今の風潮からすると君子ではありません。爵位を持つ家柄の子なのに行儀が悪い。品がない。女好き。相手にする女は貴賤を選ばず」

「繁華な市にたむろするごろつきみたではないか」

「私のみるところ、ごろつきまがいの男です。ですが気になるのはあの眼光、実行力、決断力、智力です」

「おや、趙姐さんは曹操が好きだね。けなしてずいぶん褒める」

「いいえ、目が離せないだけですよ。董卓と比べるとずいぶんと品がよろしい。に呂布よりも垢抜けています。それに公孫瓚に与している劉備という男よりも洗練されていると思いますよ」

劉備? はじめて聞く名だ。公孫瓚劉備を高く買っているのか?」

「二人は盧植のもとで学んだ間柄です」

劉備とやらはわが師、盧先生の弟子なのか……」

 螻蛄の好学は若いころ、盧植の堂の草むらに潜んで学んだのである。

「見ればすぐにわかります。振り返ると自分の耳朶を見ることができるという、大耳の持ち主ですから」

「異相だ」

「異相です。三人の男が白馬義従そこのけに劉備にかしずいております」

公孫瓚(こうそんさん)も曹操を軽んじておった。劉備曹操を軽んじておるのか? 瓚の頭には袁紹しかない」

 袋のなかで鼠と螻蛄(けら)が首をひねった。

「そうでしょうとも。瓚のはらわたは煮えくり返っているはず、冀州牧の地位を袁紹に奪われましたから」

 私は思案しながら答えた。袁術袁紹公孫瓚の心中を推し量ると慎重にならざるをえない。みな、節操を欠いているのだ、己のためなら何でもやってのける。そういう風潮なのだ。

「瓚は冀州を奪うつもりだったのか?」

意外なことに、白頭王は冀州の都、鄴(ぎょう)の鼠のくせに外のことを知らない。なるほど、外の世界を見てみたいという白頭王の気持ちがよくわかった。

冀州はご存知のように豊かな州で、穀物は十年を支えるに足り、甲(よろい)をつけて戦える兵は百万といわれております」

「そうじゃよ。冀州は大州だ、おかげで鄴の鼠は富栄えておる」

「河内(かだい)に拠っていたころ、袁紹は義旗の兵糧を冀州に頼っていました。董卓を討つという大事をなさねばならないのに、兵糧はいつも冀州牧の采配次第です。これでは身動きもままならぬと冀州を乗っ取ることにした」

「それで冀州の北にいた公孫瓚を利用したのだな。瓚は幽州牧の劉虞(りゅうぐ)とうまくいってなかった。袁紹の使者がきて、『道案内をいたしましよう。麾下(きか)はすぐに軍を進めて冀州を奪い取りなされいっ』と言う。瓚は有頂天じゃわい」

 螻蛄の好学がさも愉快そうに笑う。

「白頭王よ、切れ者公孫瓚がなぜすぐにうまい話に乗ったのか」

「これこれ好学先生、じらすでない」

「漢朝のきまりで、夷狄(いてき)と接する要塞をかかえた土地には兵糧をおくることになっている。それで年ごとに冀州から幽州へ兵糧を送っているのだよ」

 螻蛄(けら)の好学がぽんと手を打った。

「ほ、ほう。なるほど。冀州を得た公孫瓚は、嫌味な劉虞を兵糧攻めにできますな」

 白頭王の声が大きくなった。

「しいっ、声が高い。そうです」

公孫瓚の行くところ、風に靡く草のように降伏するものじゃて韓馥(かんふく)の奴、夜も眠れずおたおたしておった」

白頭王が頷く。

「臆病風に吹かれた韓馥は、公孫瓚怖さに袁紹冀州牧を譲ってしまったのです。冀州を乗っ取れとたきつけられた公孫瓚、兵をだしたものの冀州袁紹のものに」

「ははっは。漁夫の利ですな。そりゃ怒るわい。怒らずにはおられない」

「人は誠実であらねばならぬと思っていました。誠実な人が好きです。でも、現実には誠実なものは屠られ、腹の黒いのが生き残る。奇々怪々な世の中でございますわ」

「人の心をもてあそぶ駆け引きがものをいう世だ。それでも私は趙姐さんのように、友を選ぶならば誠実で情けあるものを選ぶよ」

「そりゃそうだ、腹黒いのを近づけると心がざわついてたまらない。私もやはり誠実な者が好きじゃよ」

 白頭王も好学も私と同じ考えでうれしい。この濁世のなかでできれば美しいものだけを見て暮らせたらと思う。

「なんだろう。あの笛の音は。心が泣いているような音だ」

「ああ、胡笳(こか)ですよ。匈奴(きょうど)が好む笛です。あら、好学先生は初めてお聞きですか?」

「うむ。心に染み入るぞ。異国的な音だ」

「私も初めて聞いたときそう感じた」

匈奴冀州(きしゅう。河北省)を徘徊するとはだれも思わなかった……匈奴

「やはり滅ぶのかこの国は」

 好学の声が湿った。

「天下を平定するのはだれだろう?」

 白頭王がつぶらな目で私を見上げる。

「だれでしょう……。玉璽の精を捜せばわかります。冷たくて気高く、恐ろしく傲慢で神のように美しい若者です。袁術のところでみた妖物は玉璽の精と呼ぶには醜すぎる。袁紹のところでみた妖物はまだ御璽の精とは呼べない、人の欲望を食らって何になるのかわからない」

董卓がさらっていった幼い天子のところに玉璽の精はいるのかもしれぬ」

「さあ」

 私は首をかしげた。雒陽(らくよう)で会った傲慢で犯しがたい気品を備えた玉璽の精は死んでしまったのかもしれない。

 空を翔けながらしゃべっていたのがいけなかった。びりびりと空気を震わせながら矢が飛んできた。匈奴の矢は正確だ、私はとっさに大空高く羽ばたいた。矢はそばを飛んでいた鳶(とんび)にあたったのだろうか、鳶が地上に落ちていく。鳥の姿よりも人間の姿の方が安全かもしれない。

 
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中国歴史地図集
東漢 冀州(三聯書店香港)より。


つづく