妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十三

   妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十三

 
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 後漢の幽州   中国歴史地図集     三聯書店(香港)版より

 ただならぬ殺気を感じた。ここは街道からそれた間道の茂みである。

袁紹が支配する冀州を北上していた私たちは、あえて街道をさけた。街道の要所要所に関所が設けられ兵士がたむろしていたが、これが曲者である、難癖をつけていつ襲ってくるかわからない。この国は今、確実に滅びようとしている。国が滅びるときはまず秩序が死ぬのだ。そして力が秩序に取って代わる。力が薄汚れた正義の仮面と衣で装う。戦乱を避けて民はさすらい始めた。かれらは有徳の者を指導者に選んで自衛しながら移動した。それでも無事に全員が安住の地にいきつけるかどうか……、旅は危険この上もない。かといって残るものたちとて沙門が説く地獄とやらをたっぷりと味わうである。訳ありの旅人が選ぶように私たちもまた間道をとり、昼は隠れて夜になると進んだ。まどろみから私を引き戻したのは、真夏の日差しのような殺気である。

茂みがざわざわ揺れた。はっと私は身構え剣の柄を握る。

「用心めされいっ」

白頭王が押し殺した声で鳴き、匙より小さな佩刀に手を伸ばした。侮ってはいけない。鼠も年をとれば術に長じるらしい、白頭王が八尺はゆうに超える偉丈夫と化して、この佩刀を振りかざして戦うのを私は見た。白頭王は前に「鼠だからと馬鹿にしてはいけない」と言った。あの言葉には深い意味があったのだ。はるか昔に燕、趙と呼ばれた地は方術の士を多く輩出した。白頭王は方術の士を眺めるうちに、術の一つや二つを習得したものらしい。

「おう」

すかさず螻蛄(けら)の好学は私の髷(まげ)のなかに潜り込む。螻蛄は私の髷を極上のねぐらと心得ているようだ。

 

茂みから痩せた男がぬっと姿をあらわした。荒々しく草原を波打たせながら男の三方から男三人が現れ、じりじりと痩せた男への包囲網を縮めていく。

「うぬは幽州の密偵だ。孫堅の死をしらせに行くのだろ」

追っ手の首領とおぼしき男が剣を男の胸につきつける。

孫堅、なんだい? 孫堅がどうした?」

「しらばっくれるな。うぬは袋の鼠、吐け。吐けば命は助けてやってもよい」

追っ手の剣がじりじりと幽州の密偵に迫る。密偵もまた剣を抜いてただ、首領だけをじっとみつめていた。首領が目配せをした。すかさず密偵の背後の剣がまっすぐに密偵の背を突く。突かれたと思った刹那、密偵は空に跳び首領めがけて剣を振り下ろしていた。すかさず首領はその剣をおのれの剣で受け止めた。

「われは袁紹の配下か? それとも袁術か?」

密偵が吠えた。

「聞いてどうする」

首領は密偵の剣を受け止めたが、密偵を突き損ねた手下の剣をよけねばならない。よけたとたんに運悪く足下がふらついた。

「くらえ!」

密偵が吠える。

「あっ」

首領が鋭い声をあげた。かみあった二人の剣がはらりとほどけ、密偵の剣が首領の腕に振り下ろされる。ぶちっと鈍い音がした。骨を斬る音か、腕を断ちきられたのだろう。

「くそっ。幽州の狗め、名を名乗りやがれっ」

首領がわめく。

「人はわしを地狼と呼ぶ、見た者に災いをもたらす地狼とな」

そっけなく密偵は答えた。

「地狼よ、どこへ逃げようとわしはうぬの腕を……くそっ、もらいに行くぞ」

「ふん、出来るかな? われは剣の毒がまわって明日は黄泉(よみ)路だ」

「なんと……」

「この間抜け。刺客の武器には毒がつきものときた。わしの毒は普通の薬が効かぬ毒だ」

 地狼は首領に駆け寄る男どもをにらみつけると走り去った。

 男どもは首領を背負って姿をけした。

 

「みましたか?」

好学が髷の中から這い出してきて私の肩のうえに飛び降りた。

「おお、みましたぞ。あれは獣の跳びかた、まさに地狼の名にふさわしい」

白頭王が応じた。

「地狼と名乗ったあの者、敵に回すと厄介だわ」

私は地狼の顔を脳裏に焼き付けた。

「地狼は地中で生まれた狗の子ですな。たいていは白色の雄と雌一対で見つかる」

そう言って好学はぽんと手を打ち、続けた。

「女の地狼もいるわけか。そういうのが侍女に紛れ込んでいたら……恐ろしいのう」

「一族が滅びますわい。地狼はみたものに災いをもたらすといわれ、修行を積めば人に変化する力をもつというではないか」

白頭王は私の腕を這い上ると好学の側に座り込んだ。

「のう、先生。孫堅が死んだとか言うておったが、大ごとだぞ、こりゃ」

「おう。白頭王どのよ。痛いぞ、痛いわい。袁術は大損じゃ。袁術の天下取りの計は後退した」」

「好学どの。するとあの刺客は袁術が差し向けたということか。そして地狼はやはり幽州の密偵

 白頭王は腕組みして思案した。

   
                           続く