妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十四


妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十四

 「白頭王どの」
 「なんじゃな。趙姐さん」
「幽州の密偵とおっしゃるが、幽州牧である劉虞(りゅうぐ)の配下でしようか? それとも劉虞と対抗する公孫瓚(さん)の配下の者か? あるいは遼東太守の公孫度の配下でしょうか?」
「うむ。わしは公孫瓚を好かんがやはり優れておることは確かだ、幽州には三人の傑物がおる」
 螻蛄(けら)の好学が頷いた。
「そうか、そうか。私は公孫瓚をさして思わず幽州と言ってしまった。幽州の東には遼東太守の公孫度がおりましたな」
 白頭王は私たちを代わる代わる見て続けた。
公孫度はおのれの分をわきまえておる。背伸びしても届かぬ夢は追わない男と看た。中原に目を向けないところが賢い。なかなか出来ぬことだ、聞く所によれば公孫度は遼東育ちであのあたりの地勢を熟知しておる。隣国の高句麗へと領土の拡大を図っておる」
高句麗には董卓袁紹袁術も黄巾もおらぬ、白頭王もそう思われるか?目の付け所がちがう。幽州の西は公孫瓚と劉虞が睨みを利かせておる。おまけに幽州の西の州境は冀州(きしゅう)だ、上策ですぞ。これぞ漁夫の利じゃ」
 螻蛄の好学はこのような話になると血肉躍るのか、ジージーと鳴く声が一際高くなる。
「それなら地狼は公孫瓚密偵でしょうね」
 妖物を子飼いにするとはいかにも公孫瓚らしいと私は思った。
「いやいや、そうとも言い切れぬ。劉虞の密偵ということもある」
 好学が得意そうに胸を反らした。
「真か? 評判のよい劉虞に地狼がつくとは奇異でならぬが」
白頭王が首をかしげる
 「私も公孫瓚なら妖物をも駆使しそうな気がしますわ」
 「わしも姐さんと同じ意見だ」
 白頭王がうなずく。
「いやいや、劉虞の子飼いかもしれませんぞ」
「ならば好学先生、その根拠はいかに」
「根拠か……劉虞という男はそういう男だ、裏と表がある」
「先生は裏とおっしゃるが、まだ裏の顔などみぬが」
「そうですよ。董卓が立てた天子はまだ幼い、そのうえ董卓は怖い。袁紹は劉虞を天子に立てようと使者を幽州に送った。劉虞は怒って使者を追い返し、ついには使者を斬って望みを絶った」
「これは劉虞の府寺(やくしょ)の奥向きで暮らした螻蛄の若者の話じゃ、劉虞は倹約家でくたびれた衣をきて縄で作った履き物をはき、食うものも始末しておる」
「ええ。倹約に励み民には寛大な為政をしく姿に評判がよろしいです。黄巾の残党をさけて幽州に身を寄せる者が百万あまりとか」
「姐さん、まんまと一杯食らわされましたな。それは劉虞の表の顔」
「えっ」
「表の顔? 裏はなんだ。これ、先生、じらすでない」
「わっはっは。若い螻蛄(けら)が劉虞に心底惚れた。このように徳が高い男は、家人にどのような教訓を垂れるのか知りたい思ったのだな。それで奥向きに忍び込んだわけだ。若い者は信じられないものを見て、死にたくなった」
「異な事、なんで死にたくなるのだ。先生よ、じらすな。ああ、じれったい。はやく言うてくれ」
「なあに奥ではのう、妻妾どもが身の丈ほどもある長い裾の錦の衣を着ていた。倹約の家が裾の長い衣など着せるか」
「真か?」
「真じゃ。その螻蛄はしおたれて戻ってきた。劉虞が天子に至誠を捧げるのも何か裏がありそうだと、わしの前でさめざめと泣いたわ」
「ふふっ。劉虞も可愛い物をよく知っている。木石ではないということですわ」
「わっはっは、わっはっは。劉虞の清貧は処世の術か。うーむ、なるほど、なるほど。先生のお説はあり得ます」
 白頭王は手をたたいて笑う。
 
イメージ 1
湖北省襄陽市Googleマップより
イメージ 2
襄陽市
イメージ 3
襄陽市峴山(けんざん) 百度百科より


人界の時の流れはきまぐれで、ゆったりと流れたかと思えば奔流のように駆ける。今、私たちは人界の初平三192)年に身をゆだねているが、杏の精である杏姐さんと別れた初平二(191)年が十年も昔のように遠く感じた。
 
孫堅が死んだ。袁術の野心にくさびが打ち込まれたのだ。
後で知ったことであるが孫堅が死んだのは始平二年の冬だと言う。孫堅袁術の意を受けて荊州(けいしゅう)の劉表を攻めた。
荊州刺史部の南陽郡に拠っていた袁術は、袁紹と手を結んでいた劉表の圧力を感じていた。かつて、董卓と戦うために孫堅を雒陽にむけて派遣したときに、袁紹は兵をだして孫堅を撃たせたといういきさつがある。袁紹への意趣返しもあって荊州を撃たせたのである。
戦慣れした孫堅の兵士は精鋭ぞろいだ、樊の地と鄧の地の間で劉表の武将、黄祖を破った。黄祖は襄陽城へ奔った。襄陽城(湖北省襄陽市)は州城である。孫堅漢水をわたり襄陽城を囲んだ。劉表は城門を閉ざして籠城し、密かに黄祖を城から出して兵を徴集させた。内と外から孫堅軍を挟み撃ちする作戦だ。
 
黄祖は兵を集めて襄陽へと進んだ。孫堅の斥候が見逃すはずがない。孫堅はこれを迎え撃って戦敗させた。黄祖は襄陽近くの峴山(けんざん)に逃げ込んだ。戦勝に乗じて孫堅黄祖を追った。夜陰にもかかわらず、孫堅みずから先頭にたって猛追する。竹林の中での戦になった。黄祖の部下が矢を乱発した。夜陰、矢の雨で降った。その矢が孫堅に命中した。主を失った孫堅軍は荊州から退いてしまった。
懲りない袁術ときたら、怪しげな由来をもつ玉璽を偽造して、臣下に見せびらかせているに違いない。
                  続く


注*孫堅の死んだ年
 資治通鑑によれば初平二(191)年冬。筆者は資治通鑑によっている。
 後漢書によれば初平三(192)年春正月から夏四月の間に孫堅死亡の記載あり。
 三国志呉書の注にある英雄紀によれば初平四年正月七日とある。しかし後漢書三国志魏書に初平三年の夏四月、司徒王允呂布ともに董卓を殺すという記載があるのでこれはやはり、初平二年の終わりから初平三年の初めが妥当だと思われる。なぜなら、朝廷は董卓の死を知らせる使者を山東へだして義旗軍をねぎらっている。天子に忠実だった孫権が、天子そちのけで荊州攻めをするとは考えにくいからである。


 注*孫堅の死んだ場所
   湖北省襄陽市峴山
   ネットを検索して得た知識では峴山の風林関だというが、史書に記載がないので参考までに。