界橋についての私的メモ
それは中華書局版「後漢書」の孝献帝紀第九の初平三年の袁紹と公孫瓚が界橋で戦った記述の注から始まった。
帝紀の界橋の注*
今、貝州宗城県東に古界城あり、枯漳水の近くである。すなわち界橋はここにあった。
(注の行政区画は唐代のもの)
中華書局版後漢書「劉虞 公孫瓚 陶謙列伝第六十三」の公孫瓚伝、界橋の戦いの注に、「界橋とは橋名なり。」とあったことから疑問が頭をもたげたのである。
中華書局版は注が充実しているので助けられることが多いのですが、このために何日も何日も乏しい知恵を絞らねばならなかったわけです。
当初に用いられた界橋は橋の名ではなく、地名であったのではなかろうか?
下記の諸橋の大漢和辞典では界橋は地名としるされている。
その根拠は水経注の記載によったものであろう。
界橋とは、 後漢の冀州鉅鹿郡、広宗県東に位置した地名である。【水経注】によれば
「……白溝水また東北に流れて広宗県の東を過ぎ清河となる。清河は東北に流れて広宗県故城の南を過ぎる。清河はまた東北に流れて界城亭の東を流れる。水上に大梁あり。これを界城橋という。界橋の南二十里で袁紹、公孫瓚と戦う。麴義(きくぎ)は界城橋で瓚を破り、瓚置くところの冀州刺史、厳綱を斬る。また瓚の殿兵(しんがり)を橋上に破る……」。
上は中国哲学電子化計画の水経注より
下は早稲田大学蔵書の水経注巻九清河水。載震校版より。
請求記号ル05 00114
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中国哲学電子化計画の方にしてください。電子化計画の方は原文そのままらしく、校注しておりませんので、一部に誤りがありますが、橋にかかわる部分には誤りはありません。
赤で囲んだ所に注意してください 。
上記の図版は、諸橋の大漢和辞典「梁」の意味です。七を注目してください。「つつみ、どて」の意味があります。水経注の別の個所では梁を、「つつみ、どて」と解釈すると注釈がつけられています。水経注本文にも「水上に梁あり」と、あります。したがって界橋は、一般的に考えられる橋梁ではなく、「つつみ」あるいは「土手」と考えられます。それが自然にできたものか人工的なものかは不明です。
梁という漢字の訓読みには「はし」という読み方もあるので混乱を招きます。
英雄記や三国演義などは大梁を橋梁と解釈したような記述です。ならば、なぜ橋を焼き払わなかったのか疑問です。退路を断つには焼き討ちが一番効率的だと思われますが。
河川は姿をかえ、現代には影も形ものこっていません。水経注の通りに自分なりに地図を書いていくと大雑把に言えば現代の老沙河に相当します。そこで見当をつけて老沙河を調べると、水経注の本文「……淇水(きすい)また東北して広宗県の東を過ぎて清河となる……」とあります。この河はたえず洪水の害になやみ、治水工事が行われたうえに、水系の一部には隋代に「永済渠」という運河が作られ大いに変貌を遂げていて、古代の面影を求めるのは無理でしょう。
【付録】
下の引用は
「抱朴子内編」(中国哲学電子化計画より)にある槃河(はんが)の説明である。
私の蔵書「抱朴子」は抄訳でしょうか、内編には河川や伝説的な時代の課税方法などは記載されていませんでした。
「槃河は鉤のように曲がってよどむのでその様子にちなんで鉤盤とよばれる」ているそうです。
ついでに
もう一つおまけ。
これも中国哲学電子化計画より。
ただ、入力ミスか、校注がついていないせいか、ざっとみただけでも史料にミスが目立ちますが、見当をつけるにはなにかの参考になってありがたいです。
私見として、史料として混乱させるような記述はやめてほしいです。調べながら泣きたい思いがしてたまらなかったです。それに太平寰宇記調べるには大阪市の中之島まで行かなくてはなりませんので、調べておりません。もう、個人としては時間をとられること限りなしです。