妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十五

妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十五


冀州(きしゅう)の都である鄴(ぎょう)は、もとは戦国趙の国の領土であった。大国だった名残はさまざまなものに跡をとどめているが、その一つが女である。趙の女は美しい。

都、邯鄲(かんたん)の包囲を経験したらしい白頭王は、そのことについて触れないが、都を彩った美女たちを思い出すのだろう。「荒ぶる国ではこうはゆかぬ」と、白頭王は遠い目をする。白頭王は女の美に一見識を持っていた。「美女は顔の造作だけではなく、姿が良くなくてはならない。豚のように顔が体にのめり込んでいるのは、目鼻立ちがよくてもいけない。色香がない。美女は匂い立つようなうなじの持ち主でなければならない。そんな女は後ろ姿もよい。りんとした気品がなくてはならない、物言いが下品なのは興ざめだ。野の女丸出しで垢抜けしないぞ。所作が優美でなくては……」と、語り出したらきりがない。

 

白頭王が「おお、麗しい」と、鳴いた。私の耳の側で大声をたてたので耳がじーんとしびれたくらいだ。なるほど白頭王の視線の先には遠目にもくっきりと鮮やかな女がいた。なんと大胆な女だ、顔もかくさず一人で昼日中の街道を行くのだ。ご政道がまともな時でさえ女の一人旅は無謀だ。今の時世ではみずから虎口に飛び込んでいくようなものである。案の定、癖がありそうな面構えの男が女の後をつけていく。人気が途絶えると男は小走りに女に迫った。

「おお、危ない、危ない」

螻蛄(けら)の好学が鳴いた。

「先生がたは綺麗な女をみれば義侠心をくすぐられる。心配ご無用、身のこなしに隙が無いわ。あの女、ただ者でない」

「そうだろうか?」

私の言葉を嫉妬心と受け取ったのだろうか、好学は口ごもった。

面白くない、私はそうでないことを彼らに悟らせるために、枯れ野を出来るだけ静かに歩み、女に近づいた。

「姐さん。一人かい? 一人旅は危ないなぁ」

にやにや笑いながら男は女の腕を掴んだ。

「なにする」

女が叫んだ。

「いてっ、てっ」

女に肘鉄をくらわされた男が脇腹を押さえた。すかさず男の前に回り込んだ女は股ぐらを蹴った。

「ぎゃつ」

男が顔を歪めてしゃがみ込んだ。

「うっ。やりやがったな。てめえ、ただで済むと思うな」

「おほほ。大口たたくのもそこまでさ。お天道様を二度と拝めなくなりたいかい」

女の匕首(あいくち)が男ののど元をぴたぴたと叩く。

「失せな。ぐずぐずしているとそのむさい首、赤い花が咲くよ」

男はちっと舌打ちして街道の木陰に消えた。

「おーい。李新婦よ」

 女を追いかけてきた男がいる。女の夫だろう、二人の間には遠慮のない馴れ馴れしさがある。

「用足しですか。それならそれと言っておくれよ。むさい男に手籠めにされるところだったよ」

女がむくれた。

「手籠めか。うはっはっは。そりゃいかん、ひん剥いたら腰を抜かすぜ。りっぱな逸物(いちもつ)がぶら下がってござるわい。ほんにおまえ、男にしておくのがもったいない」

男は大口をあけて笑った。

「ちっ。だからなんだっていうの。夫婦者に化けて諸国の動きを探るのがわれらのお役目だ、白兄さんはこのお役目、好きじゃないのね」

女は男を睨む。

「いやいや。おまえが哀れでならないよ。宮中ははおろか、王侯貴人の寵を受けた俳優(わざおぎ)のおまえが、密偵など勤めている。おまえの歌も舞も、綱渡りも人間業とは思えぬ力量だ。なのにそれを生かせぬとは世も末じゃよ」

「嘆くことはないわ。今のお役目、気に入っているよ。今までは貴人の寵にすがって生きてきたけれど、それは私じゃない私。眉目(みめ)の麗しさは朝日に輝く草の葉の露みたいなもの、時の流れととともに消えていくもの……私は老いという影にいつもおびえていたわ」

「時の移ろいか……その若さで悩んでいたのかおまえは」

「曹公に出会って私は、別の生き方ができると感じたの。混沌とした世の中に光をもたらすのはこの人だ、この人は家柄も出生も気にしない、その人間の才能を愛する人だと。私、生きている値打ちを……生きがいを見つけた」

「おまえ、すっかり曹公に丸め込まれたな。あの男はでかい夢を語りおる。いわばほら吹きだよ、才能も家柄も袁紹に劣るくせに、おのれは袁紹より上だと思っておる。自尊心だけ尊大だ」

「あら、そうかしら。新しい時代がすぐそこまでやってきている。扉を開けるのは古い時代の価値を毀す人だわ。決断力は曹公が上よ。曹公のもとには様々な人が集まる。家柄や出自で人間を判断しないわ。そこがいい。私は曹公に賭けてみたい」

「おまえの行くところ、わしはとことんついて行ってやる。曹公、曹公などとほざく人間の末路が危ぶまれてならんわ。かさこさと何かが動いた、誰だっ!」

男は小石を投げた。

私は身を縮めた、その拍子に笹の茂みが揺れた。この男は百戯で短刀投げでもしていたのか、いやに正確に石を投げる。白頭王が鳴きながら男たちの足下に走りでた。

「鼠だ」

「ふん。でかい鼠だ。さ、日が暮れぬうちに先を急ごう。袁紹の軍勢が動いた。袁紹自らが指揮をとっているらしい」

「じゃあ、やはり公孫瓚と一戦を交えるね。公孫瓚も怒りにまかせて冀州の奥深くへと進んだものだ」

 二人は街道を急いだ。

 

続く。

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後漢冀州
 中国歴史地図集(香港三聯書店版)
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鄴城(ぎょうじょう)水経注より