妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十六


   妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十六
 
 白頭王はしきりに頭をかきむしった。がつんと脳天に一撃を食らった気がしただろう。なまめいた美女が男だったとは不覚であった。大きな戦がはじまるのも。
 「あれは孫子の兵法か……。いやいや、望気の術じゃよ。騎馬の大軍が動くと砂埃が舞い上がり天に届く。ゆえに空に屏風のような霞がかかると聞いたがそれだな。将軍の気は黒いともいうが、黒気は見えん」
早口に鳴き立てるとぱたりと地に伏せて地面に耳をあてた。
匈奴(きょうど)の民はこのようにして騎馬の多少や敵の遠近を知るという。ああ、さっぱり読めぬ」
白頭王はちっと舌打ちする。
「逃げろ、逃げろ。兵隊が押し寄せてくるぞ」
烏が鳴きながら飛んできた。
いやな鳴き声だ、螻蛄(けら)と鼠は慌てふためいて私の背中の袋に逃げ込んだ。
「戦がはじまったのですか?」
私は烏に向かって叫んだ。
「やあ、驚いたな」
烏は私の数歩先に降り立っと気取った様子で歩み寄る。
「烏の言葉がわかるのかい。人間なのに」
「ええ。黒衣郎という烏族の友達がいるから」
「なんだって」
烏は立ち止まり、丸い目を見張った。
「娘さん。本当にあんたは黒衣大将軍の友達かい?」
「黒衣大将軍? その大将軍とは黒衣郎のことでしょうか?」
「そうさ、すごいぜ。黒衣大将軍はにわかに頭角をあらわした烏の英雄だ。男ぶりも知略も度胸も格別でさ。あっというまにこの辺りを占領した。まさに烏なかの烏だ」
「そうね。黒衣郎はすかっとするようないい男だ。このあたりまで勢力を伸ばしてきたといったね、それじゃ黒衣郎はバヤガルの湖(うみ)から戻ってきたのだね」
「おう、バヤガルからきれいな花嫁を連れてきたよ」
「花嫁……」
「近頃、ここらをうろつく匈奴の貴人みたいな顔をしとる。金色の髪と青い目をした空を飛ぶ婦人だ」
「……」
 烏の言葉に私は息を呑んだ。
 幼いころに魂送りのお婆から、異世界には勇者の魂を天に運ぶ「死の乙女」がいると聞いたことがある。バヤガルはまさに異世界で、「死の乙女」の一族が黒衣郎を魅入ったにちがいない。世界の秩序がほころびはじめたから異世界の妖物がこの国に現れだした。
 
 ひたすらに黒衣郎の無事を祈りながら帰りを待ちわびていた杏姐さん、姐さんはこのことを知っているのかしら? 知ったら姐さんは死んでしまうに違いない。無性に杏姐さんに会いたくなった。杏姐さんのそばにいてあげなくては……。このまま西へ引き返したい思いに駆られた。そのまえに、黒衣郎に会わねばならない。会って黒衣郎の心変わりに文句の一つでもつけないと気が済まない。それにその妻とやらをじっくりと見てみたい。


黒衣郎はなるほど惚れ惚れするようないい男。だが、その妻が死の乙女の一族としたら、黒衣郎ごとき烏に満足するだろうか? 狙いは……おお、狙いは人間の英雄たちではないだろうか? 
魅入られたからとはいえ杏姐さんの心中をおもいやると、黒衣郎が許せない。あのような妖物に心惑わされて……。私たちも妖(もののけ)だが心根が違う。私たちは刺せば赤い血を流す心をもっている、他人のために流す涙がある。

「戦がはじまったのはほんと?」
「ほんとさ。公孫瓚(さん)が攻めてきたよ。やつは冀州に足場を築いていたが、袁紹をいよいよひねりつぶそうという魂胆さ。ぼやぼやしているとひどい目にあうぜ」
「おお、困った。困った」
白頭王が袋から顔をのぞかす。
「いっそのこと兵をやり過ごして幽州へいく方が安全かもしれぬ」
螻蛄(けら)がじーと鳴いた。
「娘さんよ。あんた、見世物を生業(なりわい)にしておるのか?」
「見世物?なぜ」
「美味そうな鼠と虫を連れて旅をしているから」
烏は鳴きながら私の頭上を旋回する。
「冗談じゃねぇ」
白頭王が狼の姿になって烏に向かって吠えた。
「痛い目に遭いたいかい」
螻蛄が虎に化けて牙をむいた。
「なんだ、こいつら」
烏はたまげて羽をばたつかせた。
「やい、やい、やい。烏よ。わしらを舐めんなよ」
「よせやい。心の臓が太鼓をたたいていやがるぜ。黒衣大将軍の友達に悪さはしないさ」
「それで黒衣郎はどこにいるの」
「そのさきの界橋亭城の空き家に本陣をおいていなさる。おいら烏族は休戦して人間どもの饗宴にあずかろうってわけさ」
「私たちはあとから黒衣郎を訪ねていきます。これを黒衣郎に届けてくださいな」
 袋から黒い羽根を取り出した。バヤガルの湖に黒衣郎が旅立つときに、形見にと杏姐さんに渡した黒衣郎の羽根である。姐さんにもしもの事があったなら、目印に墓にこの羽根をさしておく約束だった。羽根から懐かしい杏の花の香りが漂った。
「お安い御用だ、おいらは斥候の奚満だ、娘さんの名は?」
「趙英媛、よろしくねがいますよ」
「界橋亭といったが橋などみあたらんよ。城壁みたいに高い崖になった長い堤が川のなかに伸びている、橋のみたいな。川岸には小舟もあるぜ」
烏は飛んで行った。


私はじ鳥(じちょう)の姿に戻って空へとはばたたく。さしあたって目的などない、風に身をあずけて泣きたかっただけだ。
「杏姐さんーっ。杏姐さんーっ」
叫んでみたが耳を澄ませてもあの美しい姐さんの声はかえってこない。杏姐さんを遠く離れて私はだれに何をかたらうのだろう。
「公孫樹ーっ。私の公孫樹ーっ。どこにいるーっ」
白馬寺の胡僧が説く輪廻の輪のどこをどうめぐっているのか、公孫樹のかすかな消息さえつかめないでいる。私の涙は細かな霧になり虹ができた。公孫樹よ、私の愛しい公孫樹、私の涙でできた虹をあなたはどこで見ているの。私はけっしてあなたを裏切らない。だからあなたも私を裏切らないで。永い永い輪廻のなかですべては忘却するといういるが、決して私をわすれないで。


「姐さん、軍鼓だ。どよめきがきこえるぞ」
「あれは公孫瓚の軍勢だわ、ほら白馬義従がみごとな隊列で駆ける」
「ほう、見事だ。雁のように行く。あれ箱の形になった」
「まるで百戯の芸じゃ」
「好学先生よ、見るのは初めてだがこりゃすごいのう」
「 おや、迎え撃つのは袁紹の先触れ」
「部が悪い、なんたるこじんまりとした部隊だ。弩(いしゆみ)の数の方が人数より多い」
袁紹め、義旗の盟主が泣くわな。なんじゃあの貧弱な小部隊は」
白頭王たちの論は至極もっともだった。
公孫瓚の白馬の一団から勝鬨(かちどき)に似た大きな歓声が上がった。
「瓚の奴、得意満面だろうな。もう、勝った気でいる」
 好学が悔しそうにがなった。


 続く

じ鳥のじは
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